黒澤世莉
時間堂堂主 スタニスラフスキーとサンフォードマイズナーを学ぶ。2002年12月、オーストラリアより帰国。作家、演出家として活動中。 時間堂 http://www.jikando.com/ |
(2008年7月 横浜「お好みハウス」にて)
演劇の定義
(清水宣晶:) いやー、しかしセリは、「ドラえもん」並みに、やってることがずっと変わらない男だなあ。
さすが藤子・F・不二雄通だけあって。
(黒澤世莉:) それ・・褒めてねぇーよ、お前(笑)。
いや、10年以上一つのことを続けてるってのは立派なことだと思うよ。
セリにはやっぱり、まず、演劇とは何か、っていう話しを聞きたいな。
自分の考える「演劇」の定義は、ピーター・ブルックの定義に準じているんだけど、
「俳優と、それを観る観客がいること」、っていうもので、
その定義はとてもシンプルで、本質的だと思う。
シンプルでわかりやすいね。
せり自身が演劇を作る時は、
そこまで広義じゃなくて、もう少し限定しているってことはないの?
演劇の定義っていうのは、それぞれの人が何を面白いと思っているか、何を見せたいと思っているかによって変わるとは思うんだけど、
掘っていくと結局、やっぱりシンプルなものになると思う。
せりは、演劇のどの部分が面白いと思ってる?
自分が演劇をやる時には、俳優と俳優、あるいは俳優とお客さんの関係性、っていうところが一番面白いし、重要だと思うのね。
俳優同士の間に起こるエネルギーの対流であったり、力関係の変化であったり。
それをお客さんと共有出来ているか、とか、お客さんからもらったものを受けて変化していけているか、とか。
そういうのは、脚本を書く段階で考えるの?
脚本は関係ない。
おぉ!?
脚本がなくても、「関係性」というものが充分に表現出来れば、成立する。
ただ、一般的に、お客さんが好奇心を刺激されるのは、物語とか脚本の部分であるからさ。現代人は、あまりに論理的に生き過ぎているからね。
だから、自分が作る時には、そういうものも付加していく。
でも、そっちがファーストプライオリティーではないよね。
関係性の変化とか、そっちをお客さんに伝えるために、脚本があるんであって。
物語や脚本ってのは、必要不可欠なものではないんだな。
かなり重要だとは思うよ。
俳優と物語の関係というのは、料理でいう、食材とレシピの関係に近いと思っていて。
レシピ抜きの創作料理はやっぱり、かなりセンスがないとコワい。
そうだよね。
冷蔵庫にある食材を使って、思いつく料理を作れるってのはレベル高いよな。
実際、現実的には、自分が作る時には、俳優の関係性を豊かにすれば2時間耐えられるものが作れる、とは思わないし。
関係性をより鮮やかに濃くして、お客さんを惹き付けるためには物語が必要だから、やっぱり、手段として物語を選ぶけどね。
オレには、物語や脚本がない演劇っていうのが、どういうものか想像つかないな。
即興とかでも出来るよ。
ただ、それだとモーメントだけになっちゃうんだよね。
15分とか観てる分にはいいけど、2時間はもたない。
そうだろうね。
でね、
何で物語があるのかっていうと、安定供給するためだと思うんだよね。
それは、わかるな!
そういうことだよね。
演劇っていうのは、物語を伝えるには最適なメディアではないわけだよ。
不安定だし、主観が複数入ってくるし。
作家が意図する、純粋な物語を見せるためには、小説とかマンガのほうが適したメディアだといえるよね。
うんうん。
それが、演劇の定義には「俳優」と「観客」はあるけれども「物語」は入ってこない所以であって。
演劇作家が、物語至上主義で演劇を作ってはいけないと思うんだよ。
物語を第一義に求める人は、図書館に行けばいいし、小説とか映画とかプレステでやればいい。
演劇で何を見せるのか、っていうと、物語以外のものを求める人が、劇場に来ると思うんだよね。
演劇の特性
そうするとさ、何を表現するのに演劇は向いているんだろう?演劇が、他のメディアに比べて優れている部分て、何だと思う?
んー・・、一過性、というか、
同じものを二度と再現出来ないということかな。
一過性は、演劇の特徴であって、
価値ではないし、芸術的特性ではないよね。
一回しかないから面白い、っていうわけではないからさ。
そう言われてみれば、そうだね。
僕が思う、演劇の優れている部分というのは。
たとえば、俺が「十万円貸してください」って宣晶に頼むとしたらさ、
なにが情報伝達メディアとして一番いいと思う?
手紙とか、メールとか、直接口で伝える、とかある中で。
あー!
なるほどな。
それはやっぱり、直接会うのが一番だよな。
告白する時、メールとか手紙でする人、あんまりいないじゃん。
まあ、時々いるけど、会ったほうが成功率は高いよね。
つまり、演劇っていうメディアの優れているところは、生きている人間が目の前で発信することで、ものすごく情報量が増えるっていうことなんだよ。
それは論理的に考えてみたってわからない。
字に書いてある物語を伝えるだけなら、書籍でいいんだよ。
うんうん。
我々は、うっかり、情報っていうのはパソコンで全部送れるものだと思い込んでしまうんだけど。
でも、人間が発信したり受信している情報っていうのは、直接会ってる時のほうがずっと多いんだよ。
で、それをフルで活かすことが出来るメディアは演劇だけだよね。
わかるわかる。
でもさ、それをフルに活かしている演劇ってあんまり観たことないんだよな。
たとえば大学の講義にしてもさ、生身の人間が目の前でやってるものだけど、サテライト中継の映像以上のものが伝わってる感じしないんだよ。
それは、かなりいい目のつけどころだよ。
じゃあ、何で伝わらないんだと思う?
1対多だからかな。
先生が、オレ一人のために話しをしているわけじゃないから。
まあ、それでも伝わる先生もいるよね。
そういう人は極めて少ないけれど。
だからこそ、俳優っていう職業に価値があるわけだよ。
千人いたとしたら、千人に情報を与えられる人が俳優なんであって。
それが、俳優の能力なわけか。
大学の先生っていうのは、1対多だからそれが出来ないっていうわけじゃなくて。
そもそも伝える気がない、ってこともあるし。
伝える気があれば、普通の人でも、8人くらいまでの輪だったら、全員に伝わるように話せる。
オレは結構ね、1対1なのか、1対多なのかで、
感じ方に差があるんだよな。
宣晶はね、「1対1じゃないと伝わらない」っていうフィルターを自分自身でかけているからっていう理由も大きいと思うよ。
そうかも!
演劇というものを観ているとき、大勢の観客の中の一人、っていう立場で観ているとさ、オレの感じ方としては映画やテレビを観ている時に近いんだと思う。
演劇の観方って、本来はもっと能動的なものだからさ、能動的に観ないと、魅力は受け取りきれない。
基本的には自分から情報を取りに行くべきメディアなんだよね。
宣晶は、1対1で話す時は能動的だし、本を読む時も能動的なんだろうけど、
演劇を観る時というのは受動的なんじゃないの?
たしかに。
自分と相手の関係が、インタラクティブじゃないからかな。
あんまり自分のこととして引き受けて観ていないんだろうな。
そういう人もいれば、
何でも能動的に観て、過剰に感動しちゃう人もいて。
それは人それぞれと思うんだけどね。
そうだね。
同じものを観ても、人によって拾うものは違うものな。
俺がなんで演劇をやってるか、とか、面白いと思うか、というのは、今言った、演劇の特性というのが割と、答えだと思う。
それをフルに活かしきった演劇があまりないってことも事実なんだけど、でもそれは、技術的な問題だからさ。
演劇のメディア特性ということでは、たしかに、演劇でしか伝えられない情報があるんだよね。
演劇の将来
自分が今、すごく恵まれてると思うのはさ、稽古場に行くのが楽しくて、毎日、すごくわくわくしながら行ってるんだよ。
それは、かなり向いてることをやってるってことだな。
基本的には、盆栽を見る老人の気持ちで俳優たちを見ているよ。
(笑)えーと、それは、どういう・・
見ているのが楽しいっていうことと、長い時間をかけてじっくりと変わっていくっていうことと。
まあ、逆にいえば、なかなか人間て変わらないってことなんだけどね。
そこに、どういう風にセリは関わっていくの?
自分から見て、ここを変えたほうがいい、って思ったことを伝えていくの?
たいがいのことは自分の意思で変えられるけど、他人だけは絶対に変えられないからさ。
僕とか、演出家が出来ることってのは、他人を変えることではなくて、
相手が変わりたいって思うことを手助けする、とか、変わりたいって思うようにすることだよね。
セリが、稽古場でわくわくするってのは、そういうやりとりが好きだからなの?
すごく面白いと思うのは、長い時間をかけて成長してきた人たちが、
自分が見たいものを、自分の想像を超える形で提示してくれた時なんだよね。
僕は、演出をする時、存在の仕方の話ししかしないから、どういうタイミングでセリフを言うかとかは、全部俳優にまかせるんだけど、
でも、どうしてそうするかっていうと、自分が想像する以上のものを見たいからじゃんか。
それが面白いんだと思うよ。
ああ、それはわかるな。
自分の中で完結してるものって、自分の枠を超えることはないよね。
そうそう。
小説はさ、自分が関わってすべて作るけど、演劇は自分の手を離れたところで完成していくじゃん。
演劇を、最後に完成させるのって誰だか知ってる?
えーと・・
もしかして観客ですか?
その通り。
陳腐な言い方かもしれないけど。
やっぱり、「観客」は演劇の最低条件に入るんだよね。
観客が入れば芝居は変わるってのは本当ですよ。
観客が、今やっている芝居を最終的にどこに向かわせればいいかっていうのを教えてくれる。
そういう意味では、建築に似てるのかもしれないね。
そこに人が入って、はじめて機能する、っていう。
セリは、演出家をやりながらさ、
業界を変えていきたい、っていうような気持ちはあるの?
資本主義社会ってさ、すべてお金で換算されるじゃん。
民主主義社会ってさ、すべて人数で換算されるじゃん。
演劇ってどっちも弱いからさ。
自分の価値って、社会的にはものすごく小さい感じがするよね。
演劇とか、インディーズのバンドは、
そういう面ではとても立場が弱いよな。
資本主義も民主主義も、それが絶対に正しいとは思わないけど、
まあ、今の状態でそれを言うと負け惜しみになるからさ。
資本主義的にも民主主義的にも成功した状態でそういうことを言いたいなとは思う。
それはよくわかるよ。
でもさ、演劇の基本的な特性として、
多くの人に伝える、とか、多くの資本を投入する、っていうことにもともと不向きなんじゃない?
社会の中で、演劇っていうのは、とても有効な部品だと思うんだよ。
なんでかっていうと、現代社会で、非常に多くの問題の引き金になっている原因としてコミュニケーション不全があるわけだけど、
コミュニケーション不全っていう問題をある程度解消することが出来る、非常に有効なツールなんだよね。
うんうん。
なぜならば、演劇を作るという行為は、全員でその国の言葉を使って、共同作業として一つのものを作っていくことで。
で、一つのものを作る過程で、必ず衝突が起こって、議論が起こって、うまくいくことがあって、うまくいかないことがあって、すべて自分の意見が通らなくて、それでもみんなで何か一つのことを成し遂げていくっていう過程を経験していくっていうことだから。
そういうことの数が少ないんだよね。
小学校の授業とかで、そういうのが必要だということなんだよ。
それは、すごくよくわかるわ。
意見を主張する時に、どうしゃべったら伝わりやすくて、どうしたら伝わりにくいのか、とか。
全員で一つのものを作る時に、自分が主張するべきところ、そうでないところはどこなのか、とか。
そういうことがね。
演劇を色んな人が経験してみる、ってのはいいね。
観る側だけでなく、作る側を経験するっていうのは。
演劇を作るっていう過程が、すごく社会的だからね。
しかも、演劇っていうのは、その国の言葉がわかれば誰でも参加出来るっていう、入りやすさもある。
でも、多くの人が、そういう演劇の特徴も有効性も知らずにいるという現状は、結構空しいな、と思うことはあるね。
そうだよね。
僕が一番興味があるのは、俳優指導とか、演劇教育のほうなんだよ。
自分がいい演出家になりたいと思った最初の動機って、自分が18歳で俳優をやっていた時に、この人について習いたいっていう人が周りに見当たらなかったんだよね。
だから、自分の下の世代にそういう思いをさせたくないってのは、とても強くある。
いい演劇を学べる場を作りたいし、演劇をやってれば女にモテる、っていう風にしてあげたいし、
演劇をやっているイコール、おしゃれでかっこよくて、インテリジェンスでエコロジーでロハスなこと、っていう風にしてあげたいわけ。
いいねえ、それ!
今みたいに、社会で、「えー、演劇やってるの?」って言われる状況は変えていきたい。
だから、自分は常にかっこよくなければいけないと思うし、精神的でなければいけないと思うし、やさしくなければいけないと思うし。
で、スタンダードでなければいけないと思うしね。
スタンダードになるってのは、重要だね。
かなり壮大な目標だなあ。
まあ、そういう仕事は、一生を賭けるにはいいよな、と思うんだよ。
(2008年7月 横浜「お好みハウス」にて)
【清水宣晶からの紹介】
セリは、ストイックなまでに、ひたすらに演劇を追求し続け、演劇のことを考え続けて生きている男だ。セリが作る「時間堂」の演劇には日常生活が溶け込んでいるけれど、その逆に、セリの日常生活にも演劇が溶け込んでいる。セリの人生そのものが一場の舞台なのだと言ってもいい。
セリが言葉を発すれば、ストーリーテラーとしての説得力をもって、そこに一つの魅力的な世界を創り出すし、セリがバーのカウンターに立って、訪れる客の相手をしているだけで、店全体が劇場に様変わりする。
継続は力なりと言うけれど、セリは、肩肘張って演劇にしがみついているわけではなく、日常生活の中に自然に演劇が入り込みながら、演劇と共存して生きているのだと思う。だから、セリは、これからも演劇と共にあるだろうし、数十年先にも、今と変らぬ姿で、同じように演劇を愛し続けているに違いない。
セリは、ストイックなまでに、ひたすらに演劇を追求し続け、演劇のことを考え続けて生きている男だ。セリが作る「時間堂」の演劇には日常生活が溶け込んでいるけれど、その逆に、セリの日常生活にも演劇が溶け込んでいる。セリの人生そのものが一場の舞台なのだと言ってもいい。
セリが言葉を発すれば、ストーリーテラーとしての説得力をもって、そこに一つの魅力的な世界を創り出すし、セリがバーのカウンターに立って、訪れる客の相手をしているだけで、店全体が劇場に様変わりする。
継続は力なりと言うけれど、セリは、肩肘張って演劇にしがみついているわけではなく、日常生活の中に自然に演劇が入り込みながら、演劇と共存して生きているのだと思う。だから、セリは、これからも演劇と共にあるだろうし、数十年先にも、今と変らぬ姿で、同じように演劇を愛し続けているに違いない。