おぎわらたけし


from plants to spices
フローリストがカレー屋はじめました。
(2024年10月 御代田町「オットーザスパイス」にて)

絶対東京行こうって思った

(おぎわらたけし:) もう、息が白いよ!


(清水宣晶:) 今日はずっと曇りだったけど、この時間になって、ようやく日が差してきたね。

いい感じになってきた。
ああ、これは気持ちがいい。


縁側っていう場所も、話しをするのにすごくいいよ。
オットーさんは、生まれが御代田町なんだよね?

生まれも育ちも御代田町。
まさに、いま僕たちが座っている、この場所が実家だった。

そうなの!?
生粋の御代田ネイティブだね。

そうそう。
それは、ちょっと珍しいかも。
あっきーが知ってる人で御代田生まれの人ってわりと少ないでしょ?


そうだね。
御代田で出会う人って、移住してきた人が多いから。

親父が、工作機械を作る、電気関係の会社をやっていて。
その頃は、ここいらの食品工場とかのボイラーの設置やメンテナンスの仕事をしてたんだけど、この敷地の中に、ちっちゃな工場と自宅があった。

ここに、ご家族みんなが住んでいたんだね。

上に兄弟が2人いて、祖母がいたから、うちの中には誰かしらいて。
近所にも友達がいっぱいいたし、小学校の頃はすごく楽しい記憶がいっぱいある。

今、息子が小学2年生だけど、1学年100人ぐらいで、自分が通っていた頃とほとんど一緒なの。

今もそんなにたくさんいるの?

そう、子供の数がどんどん減少してるっていう中で、御代田南小学校はほとんど変わらない。
近所にいる子供たちの様子もあまり変わらないから、もう一度、小学生時代をなぞり直してるみたいで、すごい面白い。

その頃から、御代田にはミネベアもシチズンもあって、製造業に携わってるご家族が多かったと思う。
周りのみんなは、お父さんお母さんがお勤めの人が多い中で、うちは自営業だったから、それがイヤだった。

それはなんで?

周りの家は土日休みっていうのが普通だったんだけど、うちはそうでもなく、週末も忙しかったから。
運動会とかも、普通に親御さんが来てるのが当たり前な中、私のところはそんなに来なかったし、参観日に親父が仕事着で来るのがイヤで。
だから、自営の仕事は選びたくないなって、高校ぐらいまでは思ってたかもしれないね。

なんか、私の話ばっかりしちゃってるけど、大丈夫かな。

もちろんだよ、今はオットーさんの時間なんだから。

今日はあっきーが話しを聞きに来てくれるから、なに話そうかなって、事前にすっごい考えて準備しそうになったんだけど。
なんかそうすると、変に形を整えて話そうとしちゃうから、面白くないだろうなと思って。
だから、話がとっ散らかって、ごめん。

いや、それでよかった。
オットーさんが言うように、その場でぽっと出てきた「これ今、初めてこのことについて考えたな」っていう話は最高なんだよ。
気にせず話してもらって、それをまとめるのは僕の役目だから。

なるほどね、そうかそうか。
それじゃあ今、ちょっと思い出したエピソードがあって。


うんうん。

小学校4年生か5年生ぐらいの時に、すごいドラクエが流行ってたのね。
ロトの剣を誰が一番かっこよく描けたかを、クラスの友達と人気投票で決めたんだけど。
絶対これ、誰よりもうまく描けただろうって思った絵を出して、惨敗したことがあって。

自分では自信あったのに。

そう。
その体験って、成功か失敗かで言ったら、私にとっては、明らかにすっごい失敗、敗北だった。
自分の心に、わりとそれが残ってるんだなっていうのをね、ちょっと思い出した。

みんなからしたら別に、そんなに気合い入れた勝負だったわけでもないんだよね?

そうそう、どれがそれっぽく描けてるかな、みたいな、気軽な感じだったんだと思う。
私も、本気じゃないふりをしてたし、その場はなんでもなく終わったんだけど。

それはでも、勝ちたい勝負だったんだ?

運動が、嫌いじゃないけど、そんなにできるタイプじゃなくって。
コロッコロに太ってたから、運動会とか水泳でリレーの選手になるような、そういう経験も全然なく。
でも、何かですっごい勝ちたいっていうのはチビの時からあって、たぶん今も、わりと物事を勝負として捉えがちで。

みんな楽しく平和にやってるのが一番いいんだけれども、その一方で、何か勝負事になると、わりと負けたくない。
ミホにはそれをたしなめられる。
「別に勝ち負けじゃないんだからさ」って。

そうなんだ!
それはちょっと意外。

そう、じつは、そういうところ、すごくある。
それなりに学校の勉強はできたから、運動で花形になることができないのならば、なんか自分が得意な、勝ちやすい分野で進んでいくんだろうなって思ってて。

で、さっき言ったみたいに、自営業は絶対ないから、すごい順当に、学歴とかキャリアを積んでいって、ちゃんとした会社に勤めようって思ってたんだけど。
なんか、気がつけば、こんなところにいる。

じゃあ、将来のビジョンとしては、いい学校に行って、いい会社に行って、みたいなことだったんだ?

理系の科目が好きだったから、小学校の時はぼんやりと、研究所みたいなところに通って、日々研究をすることを想像したり。
そんなふうにも思っていたけれど、全然そうならなかったね。

どこから、大きく変わったんだろう。

中学の時に、すごい仲良くしてた、女の子のクラスメイトがいて。
キャラクターもまったく違うし、なんで彼女がそんな仲良くしてくれたかもよくわからないんだけど、面白いやつだったのね。
で、その子が、中学卒業のタイミングで、「パイロットになる」って一言残してアメリカに行って。

かっこいいな!


かっこいいでしょう。
当時は、留学する人なんて少なかったし、まだ中学生の段階で、そして御代田でしょ。
そんなの見たことも聞いたこともなかったから、ただ、めちゃくちゃかっこよくって。

年に1、2回、日本に帰ってくるわけですよ。
私は普通に地元の高校行っていて、休みの時とかに会うと、カリフォルニアのカルチャーを持って帰ってきてくれるのね。
それがまた、かっこいいの。

私、音楽は、中学、高校ぐらいからわりと好きで。
入口は、本当にど真ん中にビートルズがいて、イギリスからパンクスとかを聴いてっていうような感じだったんだけど。
友達が帰ってきた時に、「今アメリカで、この人たち売れてるよ」って言って持ってきたのが、ピチカートファイブ。

へえええ!

で、聴いたら、すごいキラキラしてて、おしゃれで。
あの頃の時代だったから、東京に憧れを持って、音楽もファッションもすごい楽しそうで、絶対東京行こうって思った。

だから多分、高校入ったぐらいのタイミングで、キャリアを順当に積んでいくっていう考えを、一回ドシャーって壊したんだと思う。
なんか、それって、かっこよくないなっていう価値観になって。

うん、うん。

東京に行く口実として、アパレルのデザインも楽しそうだし、音楽の世界も憧れるけど、そこはもう、すごい人たちがいっぱいいすぎて、ここじゃ勝てないなっていうのが、自分として多分あったんだろうね。

やるからには勝ちたい人だからね。

そうそう。
だから、そこで勝負するつもりはなくって。
で、私がチビの時から、お袋がずっと花屋をやってたから、ここだったら自分が勝てる余地があるかもしれないと思って。
花の勉強をするために、っていうことで東京に行った。

周りの人に機嫌よく過ごしてほしい

東京は楽しかった?

専門学校が新宿で、住む場所を高円寺に決めた辺りで、もうだいぶ、よこしまなんだけど。
街にたくさん古着屋があって、レコード屋もあって、絶対楽しいに決まってるから。

高円寺、いいなあ。

住んだら、ほとんど学校行かなくなって。


やっぱり(笑)。

毎日が楽しかった。
専門学校は、デザイン関係の授業以外にも、ビジネスマナーの授業があったり、カラーコーディネートの授業があったり、いろいろある中で、花の授業以外はもう全然出てなくって、ずっと街でうろうろしてたのね。

1年目が終わるぐらいの頃、ブーケを持って外を歩いてたときに、市ヶ谷の坂の途中にあるフローリストのおじさんに声をかけてもらって、そこで働かせてもらえることになった。

歩いてたら、声かけられたんだ?

そのおじさんは、まだフラワーデザインっていう言葉とか概念がない時に、アメリカでフラワーデザインの修行をして日本に持って帰ってきた、わりと走りの人で。

そこで初めて花の業界でお仕事をさせてもらって、私はそのオーナーをキャップと呼んでたんだけど。
キャップが、今まで全然知らなかった花の業界のことや、テレビ局とかの華やかな世界を、たくさん経験させてくれた。

その花屋さんでの経験は、大きかったんだね。

すごく大きかった。
この話をするのはもう、恥ずかしくってあれなんだけれども、若い時は、いわゆるリセット癖があったの。
だから今、キャップがどうしてるのかっていうのは、全然わからない。
結構ケンカすることも多かったから。

キャップのところで一番決定的にケンカをしたのは、母の日の前だったかな。
一年で一番、お花の需要があるじゃないですか。

今のうちの息子と同じぐらいの年の男の子が、花を陳列してるショーウインドーをじーっと見ていて。
何が欲しいのかとか、どうしたいのかっていうのを、結構熱心に時間をかけて私は話を聞いていたのね。
そのぐらいの子だから、すごいお金を持ってるとか、大きな仕事になるわけじゃ当然ないんだけど、なんか思いがあるんだろうなと思って、それを聞きたくて、時間をかけて話してたんだけど。

母の日前だからすごく忙しい時期で、そのことで、キャップにピシャって怒られて。
なんかね、金額の大小とか、社会的な立ち位置とかでお客さんを測るのがすっごいイヤだったから、そこに対して、そうじゃねえじゃんよっていうのがあって、バシッと一回大きくケンカして、そのすぐ後に、そこは辞めてっていう感じになって。
今になってみれば、そりゃキャップも怒って当然だよなって思うんだけど。

キャップの気持ちもわかるようになったんだ。

所帯を持って、仕事でそれなりの立場でやるようになって、ようやくそういうところに思いが至るようになった。
それまでは本当、しょうもないこともたくさんしてきたから、みんなにいっぱい申し訳ない気持ちがある。
だから、わりとね、感情のことで言うと、「申し訳ない」っていう感情が自分の中ではすごい大きいなっていうのを感じる。

それもあって、最初に「OK bread」でプレオープンさせてもらった時から、お客様にする挨拶で「良い一日を」っていうのは絶対言おうっていう風に決めて。

そうか、そこから出てきた言葉だったのか。

なんかね、申し訳なさであったり、恐れであったりが、常に自分の中に通奏低音としてあるから、ほんとに日々楽しく機嫌よく周りの人たちが過ごしてほしいっていうのは、祈りみたいにある。
周りの人たちがうまくいってて、それなりにいい一日を過ごせていれば、たぶん、自分自身も心地よくして暮らすことができるだろうと。

人の感情にオットーさんが敏感だから、自分の周りの人たちには機嫌よくいてほしいんだね。

そうそうそう!
それはすごいある。
なんか、一人でもつまらなそうな人がいると、そこにばっかりフォーカスしちゃうみたいなところが。

あなたが良い一日になれば、私の一日も良いものになりやすい。

そうなんですよ。
結局、自分に帰ってくるってことなんだけれども。
でも、わりとそれはね、切実な祈りかもしれない。

勝ち負けがない場所

専門学校で勉強をした後は、花の仕事はどうすることにしたの?

東京の花屋で働き出してから、花の業界のことがだんだん分かってきて、デザインのこともわかってくると、楽しくはあるんだけれども、当初思い描いてたほどはワクワクしないみたいなのがあって。

それは、どういうことで?

誰かと同じものを作るよりも、自分のユニークな場所を確保したいみたいな気持ちがあるんだね。
承認欲求なのか、存在意義を求めてるのかわからないんだけど、誰かと同じだと、一気にやる気がなくなる。

「ヒゲめがね」の豊田さんとかは、結構休みの度に色々なカレー屋さんに行って知見を広げてるんだけど、私は怖くて知見を広めたくないタイプなんです。
自分と同じ味のカレーに出会ったら、たぶん私は店を畳むから。

そうなんだ!


しかも同じ方向で、自分の想像を超えてたりとかするとね。
その時にもう、レードル置きます。

だから、ちょっと怖さはある。
「そっくりなのが他県にあったとしても、遠くまでは食べに行かないからここでやる価値はあるぜ」って言ってくれる人もいるんだけれども。
私は、それが他県であっても、同じ味があることを知ってしまったら、続けていけないだろうというのはある。

オリジナリティーを大事にしてるっていうことかな。

なんだろうね。
それがなんでなのかはわからないんだけれども。
あっきーは、オリジナリティーとか、自分の存在意義みたいなことって、付きまとわない?

どうだろう。
でも、なんか、どういう風に生きても、何をやっても、結局みんなオリジナルになるとは思ってる。

そうだよね、まったく一緒なんてないからね。
よく考えるとその通りなんだけど。
私はやっぱり、他のどこにも無いものを作りたいっていう気持ちが強くあるんだね。

御代田に戻ってきた後は、自分で花屋をやることにしたの?

そう。
東京から戻ってきたとき、うちの母親がもう店舗を持ってたから、そこを使わせてもらって、私が店を始めたのが、24ぐらいの時だった。

そこまでじゃあ、東京で花の勉強をして、花屋でも働いて、ずっと花一本だったんだね。

なんかこれもすごい田舎臭い考え方なんだけど、都内でキャリアを積んで、こっちに戻ってきてやったら、もうそれは成功しかないでしょうと思って帰ってきた。

わかるわかる。

でも、実際に自分で回し始めたら、2年ぐらいやったところで、結果もそんなに出ないし、すっごい疲弊して、ヘトヘトのヘロヘロになったのね。

その時に、軽井沢で神父をやってるお客さんがいたんだけど、その神父さんが西表島の出身の方で、ヘロヘロになってる私を見るに見かねて、「ちょっと休んだ方がいいんじゃないの」って言ってくれた。
「ゆっくりするんだったら、西表はいいし、あっちの仕事に繋げることもできるよ」って、西表から水牛車で渡る由布島っていうところの観光植物園の仕事を紹介してくださって。
3年間ぐらい植物園の管理をやってた。

3年間も。

最初は1年ぐらいでいいかなって思ったんだけど。
そもそも私、海が嫌いで、お日様が嫌いだったんですよ。

西表島じゃ、好みと真逆だね。

絶対死ぬまで行かないだろう、って思ってた場所に行ったら、やっぱり相当なカルチャーショックで。
なんかね、本当に何にもないの。
買い物もできないし、住む場所も、6部屋ぐらいあるプレハブの寮のひと部屋が私の部屋だったんだけど、すっげえ虫出るし、ホコリだらけだし。

そうだ、思い出した!
西表に初めて行った日、いろいろなゴミを燃やすゴミ捨て場があったんだけど、そこがボヤ騒ぎになって、到着したその日に海からバケツリレーをするっていう経験をさせてもらってね。
「俺たぶん、ここは長いこといられないな」って思った。


ぶははははは!
とんでもないところに来てしまったと。

でも、住んでいるうちに、最初は抵抗があったり、障害に見えたものを超え出すと、わりと居心地がいいなっていうふうに思えてきて。
今は御代田でDIYもやったり、庭のことも畑も少しはやったりしてるから、色々な道具使えるけど、当時は全然そういう経験なかったから。
あっちで生活する中で、草刈り機とか電動工具の使い方が一個一個手についてくると、ちょっと面白いっていう風に変わっていった。

で、あとね、競争みたいなことで考えると、勝ち負けを意識する機会がない。
たとえば、かっこいい服を持っていても、着ていく場所もないし。

いい服着てても、「なんでそんな動きにくいものを着ているのか」ってなるよね。

そういう価値で測られるから、勝ち負けみたいな、今まで気にしてたことを、あんまり意識せずに済んで、すごい楽だなと思って。

みんな5時ぐらいまで仕事をした後は、その流れで誰かのところに集まって、酒を飲み出して、9時、10時になると寝て、明るくなったら起きる。
そういう健全な生活がわりと気持ちがいいかもしれない、ってなってね。
で、結果的に、あと1年でやめようか、やっぱりあと1年いようかな、っていうのを繰り返しながら、3年ぐらい。

3年目が終わる時に、「ここでまた延長したら、俺、一生帰らないんだろうな」っていう風に思って。
そこで色々思い悩んだ。
ここにずっと住み続けるっていうのが、あんまり正しいことのように思えなくって。
で、御代田に帰ってきた感じだね。

一生やらないと思っていた職種

御代田に帰ったあとは、どうしたの?

帰ってきた時期が、親父の会社が兄貴に代替わりするタイミングで。
進めていくのがなかなか大変だっていうような話があったんで、じゃあ、そこに合流するかっていうことになって、花からはいったん離れた。

会社で働いた時代もあるんだね。

「役員たるもの」とか、「チームリーダーたるもの」「お客先常駐たるもの」っていうのを言われ続けて、それがキツかった。
「べからず」がすごく多いんだよね。
それは言われてもしょうがなかったなって、今なら思えるけど。

その経験は、なにかしら役に立ってる?

ぱっと10人ぐらい集まって、何か小さなことを為さなくちゃいけないっていうプロジェクトがあった時に、メンバーの人たちの特性とかを感じて配置するみたいなのは、ある程度できるようになったかもしれない。

チームマネージメントのような。

まあ、そうだね。
学生の頃、将来のこととか仕事のことをぼんやり考えてたとき、多分この仕事には一生つかないし、つけないだろうって思ってた職種が2つあって。
1つは、飲食業。

えええ!?

そもそも自分がそんなに食に興味がないし、長時間調理をして、食べ物の雰囲気の中にずっと身を置くのが難しいから、絶対つとまらんだろう、と。

面白い、面白い。
それでどうして、カレー屋はできたんだろう。


なんだろう・・。
こんなことをカレー屋が言っちゃいけないんですけど、あんまりカレーを食べ物だと思ってないみたいな節はあるかもしれない。

カレーの形状の問題?

それは、ただ私の中の問題なんですよ。
確かに食べ物だけど。
食べ物なんだけどね。

たとえば、おにぎりとか豚汁って、私の中で、すごい純度の高い食べ物なんです。
もうなんか、食べ物以外の何でもない食べ物。
カレーっていうのは、なんか自分にとってわりとそうじゃなくて。
なんなんだろう。

そこ詳しく、そこ詳しく。

なんかね、ときどき思うのは。
花を扱ってた時の花材の組み合わせと、スパイスの組み合わせって、私の中で同じようなところがあって。
組み合わせと、あとは個々のあしらい方。
温度とか、ホールなのかパウダーなのかとか、調理の仕方で考えていく、っていうのも割りと花と近いとこあると思う。

たしかに、カレーとかお菓子作りって、配合が重要な気がするけど、おにぎりとか豚汁は確かに、すごく食べ物って感じがする。

純然たる食べ物。
もちろん、カレーが純然たる食べ物の人も多くいると思うんですけど。
私はわりとそうじゃない。

あとはその、スパイス。
私って普段は、調理してる雰囲気の中にずっと身を置くのが好きじゃなくて、ご飯も食べ終わるとすぐ片付けたいんです。

へえー、それはなんで?

わりと無機質なものや香りが好きで、図書館とか美術館みたいに、食べ物の匂いがないところが結構好きだったりするので。
食べ物の匂いは苦手なんだけど、スパイスはわりと平気。

なるほど。
花の匂いはどう?


花屋の匂いは大好き。
あれは確かに有機的だけど、好きですね。
自分の中のファクターで、「香り」っていうのは、すっごい大きい気がする。

だから、好きな種類のバラの香りなんかは、ほんとずっともう、常にそれをかいでいたい。
ちょっとスパイシーで、甘くないバラとか。

それはわかるな、なんか。
自分のいる場所の匂いが心地いいかどうかは、すごい大事だよね。

嗅覚は、犬みたいに敏感なのかもしれない。
香りが、感情とかそういうものを、かなり作り出してる気はする。
すごいイヤな香りのところだと、やっぱり機嫌って悪くなるし。

あと、飲食ともう一つ、自分がつとまらないだろうって思ってたのって何?

営業職も絶対無理と思ってた。

はいはいはい。

でも、前の仕事で、客先常駐でチームをまとめるような時には、やっぱりその職務の中に営業の色のものって絶対あるので。

そうだよね。

でもそこで、営業が多少できたのと、飲食業ができてることで、もしかしたらなんでもできるかもしれない、っていう自信につながってるところはある。

一番無理だと思ってたものができてるんだからね。

わざわざそんなしんどいところに行く必要ないんですけどね。

でも、本能的に、成長したいのかな。
自分の考えとは別に、自分が必要としてるものをやってるのかもしれない。

あとは、もしかするとあれだね。
こういうのって、何的っていうのかな。

ちょっと言葉が出てこないんだけど、人生ですごい楽しい瞬間があると、「こんないいことがあったら、先々、それを埋めるだけの悪いことがあるはず」っていう思いが、ずっとあるみたいです。

運を使ってしまった、っていう感じ?

そうそう!
で、たぶん、苦手なことをあえてやることで、先々これ以上嫌なことが起こらないように、帳消しにしようとして、それをやってたみたいなところがある。

ああー、いや、わかる。
そういう考え方はわかる。

どっかで取り分を取っていく悪魔がいる、みたいなね。

なんか心理学では、そういう心理状態を表す専門用語があるのかもしれないけど。

多分あるんでしょうね。
底抜けに楽しい時とか、ハッと我に返ったり。
せっかくこんな楽しい時、もっと楽しめばいいのにって、自分でももったいないなって思うんだけど。

3人揃って「オットーザスパイス」

会社員時代は、どんなだった?

会社員だった時、その最後のほうは、親父が病気で亡くなって、そのあとにコロナの騒ぎが始まって。
いきなり社長になった兄貴は、たぶん相当精神的にもきつかったと思うんです。

コロナが広まりだした頃って、何が起きるかわからないから、お得意先も製造のラインを完全に停止したり、工場を稼働させなくしたりして。
そうすると、うちも同じように休みを取らざるを得ない。

私の周りも従業員たちもみんな大変な中で、社員のみんなの不安を取り払おうと休業保証みたいな制度を調べながらやりくりして、なんとか立ち回ろうとして悩んでるうち、メンタルをやられてしまって。
それで会社を抜けたんです。

週1ぐらいで心療内科に通って、薬をもらいながら、もうできることがほとんどなくて、ずっとベッドで横になってる状態が1年間ぐらい。
もうこれは、会社に戻っても、多分また調子を崩すことになるんだろうなと思って。

それは、オットーさんもお兄さんも大変だったね。

自分なりにはもちろん大変だったんだけれども、急にそういう形で抜けたから、周りにも相当な迷惑をかけたはずで。
会社の社員にも、お客さんに対しても、かなり後ろめたさがあった。
だから、せめて何か仕事をしなくちゃいけないっていう焦りはあって。

勤めに出るっていう手もあるけれども、どこまでできるかわからない。
1年間ぐらいずっとベッドに横になってたから、体力的にも相当落ちてたし、そんな中で勤めに行けるのかなっていうのが不安で。
だからって自分で起業しなくてもいいのに、自営でやることにしたんだね。

その時の精神状態とか、使ってた薬のこととかで、まともに物を考えられるっていう状況じゃなかったのが後押ししてくれて、あとさき考えずに、自分で始めちゃった。

思い切ってスタートしたんだね。

独立して自分で仕事を始める人って、それまでの色々な繋がりでお客さんを引っ張ってきたり、なんらかの準備をしていて然るべきだと思うんだけど。
そういうの何もできないまま始めたんですよ。

そんな状況だったら、今の私なら、やらない方がいいよっていう判断をすると思うんだけど。
その時はそういう判断をしなかった。

血迷ってしまった。


そうそうそう!
そういうことです。
多分、大半の人がその状況だったらやらないと思うんだけど。
ミホは、あの子すごいよなって思うんだけど、そのタイミングで「やればいいじゃん」って言ってくれたんだね。
私が逆の立場だったら、相方がすごい弱ってたら、その人にやりたいことがあったとしても、それを後押しすることなんてしないと思うんだけど。

彼女は、私が前の会社で仕事してた時も、「こんな適当に生きてきたような人が、それだけの報酬もらえるっていうのは、身内だからであって、それに見合うだけの能力ないんだし」っていうようなことを、わりとさらっと言ってくれた。

私は結構負けず嫌いなところがあるから、そう言われたらやる気を出すほうで。
それがわかってるからなのか、どうなのかわからないけど、それで後押ししてもらったっていうのもあった。

なるほどなあ。
自営で始めようっていうときに、カレー屋っていうのは、どこから出てきたんだろう。

カレー屋はね、西表にいるときに同じ寮の中に入ってた人が、わりとしっかりスパイスを調合してカレーを作る人だったんです。
それがすごく美味しくて、スパイスって面白いなって思って、こっちに帰ってきた時に、ちょこちょこ自分で作ってはいた。

私自身は、作ったものを味わってどうこうって、あまり考えない人なんだけど。
でもなんか、私の作る食べ物の中でも、ミホとチビのリアクションが良かったんですよ。

好評だった。

もっとこれがこうだったらいい、みたいなフィードバックが多かったの。
これは深掘りしてみる価値ありだなと思って、少しずつ改善しながら作ってた。

あとはね、カレー屋でやっていこうかってミホと話してた頃に佐久穂町にできたのが「ヒゲめがね」さんだった。
立科の「ティケ」さんもできてたかな。


ほうほうほう。

で、下仁田にも「シモンフッド」っていうスパイスカレーのお店があって、そこにちょくちょく行って、食べさせてもらって。
もしかしたら、これだったら私の場所があるかもしれない、私のやる意義があるかもしれない、って思った。

それは、違うものを作れるってこと?

そう、まったく同じでも近くもなかったし。
あとは、なんかね、あんまりロジカルに物事を捉える方じゃないんです。
昔は違ったかもしれないけれども、何がきっかけだろうな。
いつからか、もっとなんか感覚的に、感じた方向に進む方がいいんじゃないかって思うようになってて。

カレー屋やろうかな、どうしようかなと思ってた時。
サニーデイ・サービスの曽我部恵一さんが下北沢でカレー屋を始めたの。

へえええ。

「八月」っていう名前のカレー屋始めてて。
そうか、あの人がやるんだったら、私もやってもいいかもしれないなって。
で、これはほんとに偶然なんだけど、「otto」ってイタリア語で「八」なんだよね。
なんとなく、見えないものの手、みたいなものをタイミング的にちょっと感じて。

それはなんか、流れに乗ってる感じだね。
「オットー」っていう名前は、どこから出てきたの?

私、おぎわらたけしっていう名前だから、イニシャルの「O.T.」は使おうと。
「OT」でなんかいいのないかなって考えてたとき、昔から好きな映画で、『アナとオットー』っていう映画があるんです。
ドイツ制作なんだけど、舞台がスウェーデンかどっかの、悲しい恋の映画があって。

で、自分は家内から見ると「夫」であって、息子から見ると「おっ父」だから、私についてる役割みたいなもので、名前を付けた。

なるほど!
そんな意味もあったんだ。

ようやくこの頃、いい名前だなって思えてきたかもしれない。
で、周りのみんなにも、屋号で呼んでもらえると、ちょっと嬉しい。

でも、お店じゃなくてオットーさん個人のことを「オットーさん」って呼ぶのは、合ってるのかな?

合ってる合ってる。全然合ってます。
昔からの友達なんかには、自分の下の名前の「タケシ」で呼ばれることも当然あるんです。
だけど、なんかね、「タケシ」っぽくないねって言われることも結構あるし、自分自身でも子供の時からずっとそう思って。

面白い。
自分で違和感ある?

うちらの世代にとっては、「タケシ」っていったら、「ビートたけし」か「剛田武」でしょ。

わかるわかる!
まず最初に頭に浮かぶ。

すっごいおっきいよね。
彼らが自分のキャラクターとは乖離してたから、その名前で呼ばれることに対してあんまり愛着とかはなくて、むしろ違和感があった。
それよりも、自分でつけた名前で呼ばれる方がすんなり受け入れられる。

そんな中でもやっぱり、昔からの知り合いの人は、「おぎちゃん」とか「たけちゃん」とか。
「たけちゃん」が一番ぞわぞわするんだけど。


ぶははははは!
一番ぞわぞわする。

なんか、しっくりこない。

自分の本名がしっくりこないって、面白いなあ。
でも、「オットーさん」ていうと、なんかミホさんとか息子くんとか、家族全部を含めた総称になっちゃわない?

そうだね。
でも、なんか、それがいいなと私は思ってて。
「オットーザスパイス」で、このファミリーを示すっていう感じのあり方。
狙ってもなかったし、思ってもなかったけど、なってみたら割と良かった。

そもそも、1人でバンと出て、周りの人たちと渡り合えるほどの器もないから、3人でやっと一人前、ぐらいがちょうどいいかもしれない。

なんかこのごろ、この感想に至ることが多いんだけれども、周りの人たちが、みんなすごい。
暮らしというものを成立させて生きてる人たちが。

それは僕も思うなあ。
毎日の生活を成り立たせているっていうのは、それだけですごいことだと思う。

みんな、よくやってるじゃないですか。
でも、なんか、こういう夕暮れの時間になって、今日もどうにか一日が超えられそうだなという時の、積み上げている感が、このごろ実感として強くある。
その日暮らしと言えばその日暮らしなんだけど。どうなんでしょうね。

今にフォーカスしてるってことだよね。
いい生き方だと思う。

なんか、人間。
・・べつに人間に限らないか。
生き物なんてみんなそうなんだろうけど、1秒、1分、1日1日の積み重ねでしかないですもんね。

先のことを考えなくちゃいけない時もあるけれど、考えすぎて押しつぶされない程度に目下は生きていくしかないんでしょうね。
私は、そういうスタンスで生きることを一緒に楽しめる家族といられて、本当によかったと思う。
(2024年10月 御代田町「オットーザスパイス」にて)

【暮らし百景への一言(おぎわらたけし)】
誰かと話すことではじめて思い出す記憶があります。
本インタビューは、あっきーと対話することでしか生まれ得なかったわたしの記憶。
それがこうしてカタチになること。
これもまた一興であります。

清水宣晶からの紹介】
オットーさんは、物作りでもファッションでも抜群のセンスを持っていて、どこにいてもパッと人目を集めるような華やかさを持っている。
それでいて、とても控えめに、その場にいる人たちを見守りながら、寂しそうにしている人がいれば、さりげなく手を差し伸べてくれる。
そんな穏やかな物腰からは想像がつかないほどに、オットーさんは酸いも甘いも数多くの経験を重ねてきた人だ。

オットーさんも僕も好きなドラクエでいえば、遊び人から魔法使い(花屋)と戦士(会社員)に転職した後、今は僧侶(カレー屋)をやっているような感じだろうか。
ドラクエも人生も、転職を繰り返してさまざまな経験を積むほどに、多様なスキルを身につけて強くなる仕組みになっている。
オットーさんは、カレー屋とはまったく異なるバックグラウンドを歩んできたからこそ、この世のどこにもない、オリジナルでレベル99のスパイスを作り出すことができた。

僕はオットーさんと一緒にキッチンに立ってカフェラテを淹れさせてもらったことがあり、その時に、キッチンでの様子や、お客さんとの接し方を間近に見て、その気遣いの細やかさがとてもよくわかった。
相手の求めるところを先回りして、さりげなくサポートをする。
オットーさんは、たとえバーテンダーをやっても、ツアーコンダクターをやっても、ホテルのフロントをやっても、一流のサービスマンになるだろう。

「よい一日を!」は、オットーさんがお客さんにカレーを手渡すときに、毎回必ず伝えている言葉だ。
周りの人たちが機嫌よく過ごせますように。それは、オットーさんの心からの祈りなのだという。
あなたにも、あなたの家族にも、あなたの大切な人にも「よい一日を!」。
今日もオットーさんは御代田の中心で愛を叫んでいる。

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