木村音詩郎
小説作家 Otojiro Log http://www.cionworks.jp/otojiro/ |
(2008年12月 白金高輪「音詩郎邸」にて)
会話からのインプット
(清水宣晶:) まずさ、オレが前から不思議に思ってたのは、音ちゃんがほとんど本を読まない、ってことなんだよ。
(木村音詩郎:) それは、よく言われる。
でも、ホントにほとんど読んでなくて。
最後に文章らしい文章をちゃんと読んだのって、高校の教科書だね。
音ちゃんの書く文章を読んでると、本を読んでないようには思えないんだよな。
表現の幅ってさ、ボキャブラリーの豊富さに比例するんじゃないかと思うんだけど、どこからそれをインプットしているんだろう?
言葉のインプットは、ほとんどが人との会話からじゃないかな。
会話からのインプットって、他の人よりも多いと思う?
毎日、朝まで語り明かすような生活をしてたからね。
それを考えると、多いと思う。
仕事もしないで、ずっとそんなことばっかりやってたわけだから。
あと、大きいと思うのは、本を読む人が自分の周りにすごく多い。
ああ、なるほど!
だから、書き言葉で語る人が結構多くて、普通の会話ではあんまり使わないよね、っていう単語をみんな使う。
まず、妹からして読書家で、小学生の時に俺にむかって突然、『あんた、鉄面皮だよね』って言って。
「てつめんぴ」って何だ?って驚かされたりね。
ぶははははは!
小学生が会話で使う言葉じゃないよな。
そういう、聞き慣れない言葉を聞く機会が多いんじゃないかと思う。
イベリコ豚が、ドングリばっかり食べて育つように、
質が高いものを取り入れられる環境にいたんだね。
(笑)そう、環境の影響ってのはあるかもしれない。
で、そういう人たちのほうが、話していて新しい発見を与えてくれるから俺も好きで、だから周りに自然に残るんだろうなって気がする。
そうかもね。
本っていうのも、情報のパッケージだと思うんだけど、それを読んだ人が、その人なりの言葉で語るってのは、さらに高密度で濃縮された情報なんだろうな。
たとえば、映画とか観た後に、そういう人たちと話しをすると、肯定的であれ否定的であれ、その人から出てくる言葉って言うのは、その人が考えるエッセンスを全部並べたものなんだよね。
うんうん。
単語そのものだけじゃなくて、その背景にある状況までセットで自分の中に入ってきてるってことだよね。
そう、あと、知ってるからといって、そのすべての単語を使うわけじゃなくてさ。
そのシーンそのシーンで選ばれる言葉というのは、長いことその人とつきあっていかないと見えてこないんだけど、幸いなことに、オレ自身、一人一人に対して色々なシーンでつきあえるだけの時間があるから伝わってくるものがあって。
たとえば、「不愉快」っていう単語があるけど、普通にいるだけだとなかなか聞かない。
あんまり聞かないね。
誰かに「不愉快だ」っていきなり言われることはなくて。
でも、長いこといる間には、言われる瞬間もある。
俺も、普段使わないから、その単語があるっていうこと自体忘れてしまっているんだけど、まわりにその単語を言う人がいたりすると、こっちも文章を書く時にスッと出たりする。
あー、なるほどなあ。
じゃあ、今までに関わった人の言葉が、自分に乗り移っている感じなんだな。
そうだね。
俺の創作は色々なもののコラージュって考えてるんだけど、言葉に関してもそうで。
色々な人が使った言葉を、他の人が使っていないような組合せで使って創作をしているっていう気がする。
言葉に対してのアンテナ
人の話しから学ぶっていうことは、前から好きだったの?それが特別好きっていうわけじゃなくて。
興味ってことだと思うんだけど、たとえば渋谷の道玄坂を歩いているとするでしょ。
自分がもしお腹が減っていたら、食べ物屋にばっかり目がいくけれど、もし、すごく女に飢えてたら、かわいい女の子にばっかり目がいくでしょう?
うんうん。
そうなるね。
それと同じで、自分が何かを表現しようとか、何かを話したいということを望んでいる時って、「ああ、こういう表現方法があるんだ」ってことに気づきやすいと思うんだよ。
自分は、言葉を使って表現しようとしてたから、誰かが話す言葉に対してアンテナが立ってるんだと思う。
わかるわかる。
オレはそれ、「心のフック」って呼んでるんだけど、
それが有ると無いとだと、同じ時間を同じように過ごしたとしても、引っかかってくる量が全然違うよね。
全然違う。
言葉っていうものに対して興味を持ってしまった以上、相手が発する言葉のほとんどに興味が出てくるわけで、一つの会話の中だけでかなりの量がストック出来る。
そういうことか。
そういえば音ちゃんて、人の会話をよく覚えてるよね。
セリ(黒澤世莉)と一緒に役者をやってた時に気づいたんだけど、セリフを覚えるのはやたらと早かった。
台本をもらって、一日与えてくれれば、だいたい覚えてた。
話し言葉だけじゃなくて、台本とかでもそうなんだ?
そう。
台本も、読むのは苦手だけど、自分で声に出して、言ってるうちに覚える。
映画を見ても、その中のセリフをやたら覚えてたりとか。
なるほどなあ。そこだな。
なんか、原点がわかってきたよ。
実際に小説家になりたいと思ったのは小学生の頃だから、それ以降は、国語の教科書でも、話し言葉でも、誰かが発した言葉に対してはことごとく興味を持ってた。
小説家って、他の職業に比べると、ほんとにゼロから世界を作っていくからさ。
その世界のルールとか文化とか、物理法則からすべて作っていくことになっちゃうから、じゃあ、それを作るにあたって、実際に自分が住んでいるところってどうなんだろう、っていうふうに色々なところに興味がいってしまうじゃない?
だから、天候がどうだとか、地層がどうだとか、耳に入ってくる話題にはことごとく反応してしまう。
そうなると、あらゆる学問が関心の対象になってくるね。
そう、ちょっと聞くだけで、「え?それってどういうことなんだろう?」とか。
そのままどんどん深く、自分なりに妄想を広げられる。
その感じ、わかるよ。
自分の中で対話が成立すると、退屈しないよね。
この前、レストランに行ってフォークが出てきた時、メインディッシュ用のフォークは四ツ又なのに、なんでデザート用は三ツ又なんだろうって思って。
そこが気になるんだ!?
で、マナー違反なんだけど、パスタを食べる時に三ツ又のフォークで食べてみる。
したらね、やっぱり、うまく引っかからない。
なんでだろうと思って、四ツ又のとくらべてみると、あ、ここで力点と支点が発生して、、あ、なるほどね!みたいな。
ぶははははは!
それはやっぱり、相当フックが多いんだな。
共感をしやすい体質
それだけ色々な知識に対しての関心があるのにさ、なんで本を読みたくならないのかってのは不思議だよ。
一つには、やっぱりめんどくさいから。
自分が文章読むのに慣れてないから、文章読むのが遅くて、一つのストーリーを読み終えるのに何日もかかるからさ。
そういうのが結構ストレスになるんだろうなっていうことがある。
そうか。
それはもう、自分には不向きな分野として割り切っちゃってるんだな。
もう一つは、映画でもそうなんだけど、作品の影響を受けやすいタイプだから、あまり自分に影響をおよぼすような行動をとりたくない。
お?
そうなんだ?
一番イヤなのは、小説を読んだ時に、その内容が、今構想している話とかぶってたりすると、とても悔しい思いをするわけだよ。
後で「あれに影響されたんでしょ」って言われると、自分の中ですごく納得がいかない気分になるから。
そういうことはあまり起こしたくないなって。
ああ、その小説をそもそも読んでなければ、自分としても、絶対に影響を受けてない、って断言出来るもんね。
そう。
一回読んじゃうと、影響を受けてないって思っても、それを否定出来ないからね。
「まあ、読んじゃってるしな」ってのがあるから。
だから、いわゆる名作って言われてるものほど見てないことが多い。
なるほどなあ。
音ちゃんは、学ぶスタイルとして、聞いてインプットするのが一番得意な人なんだな。
人から聞いたことって、それによって、自分自身が体験をする前に回避をしてるかもしれない。
誰かに聞いた失敗談を繰り返したりって、あまりないと思う。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」って言うけど、それで言うところの賢者の生き方だな。
人から聞いた話しと自分自身の人生がごっちゃになっちゃうことってある?
人の話しだと、ある一つのケースだけを取り出しているわけだから、まだ区別が出来るんだけど、映画とか小説とかの場合、その人の人生そのものを描いたりすることがあるじゃない。
そうすると、その人の人生を歩んできちゃったみたいな気分になって。
まあ、映画っていうのはだいたいそういうふうに作られてるわけだけど。
映画のほうが、人の話しよりも、自分の中に入ってきちゃいやすいんだ?
そう。
映画ってのは、いかに観客を主観視点に持っていくかっていう風に出来ているから、まんまとそれに捕らえられちゃう。
それよりも、人の話のほうが、単純に自分自身の糧になるんだね。
映画とか観ると、なんで主人公はここで報われなかったんだ!とか怒っちゃたり、喜んだりして。
自分が表現者としてどう観客に観てほしいかって考えると、そういう風に観てほしいことも多いんだけど。
でも、自分自身がそうやって観ちゃうと、結局何も学べないで終わることが多いから。
そうなのか。
そういうの聞くと、音ちゃんが色んな人と話しが合うのって、その相手と共感してるからって気がするな。
会話で最も気をつけてるのはやっぱりその、共感っていう部分だね。
共感って、意図して出来る場合もあるけど、基本的にはその人の資質によると思うんだよ。
映画とか観てその中に入っちゃうのって、能動的なものよりも、共感しやすさっていう性質のせいが大きいと思うからさ。
そう、共感しやすい体質ってのは、あると思う。
たとえば、すごく成功をした人の話しを聞いた時って、だいたい苦労話しがあって、その結果として今こうなってるんですよ、っていうオチがつくんだけどさ。
だいたいそうなるね。
それを聞いて普通は、「すごいですね」とか「うらやましいですね」っていう感想に落ち着いたりするんだけど。
そう言っている人たちは、その成功が宝くじでも当たったかのようなこととして感想を言ってるんだよね。
うんうん。
話してる当人はそんなコメントは望んでいなくて。
「ここまでやって、成功しなかったら割りに合わない」と思って話してるんだね。
そういう話しを聞いた時は、俺は、「それは本当に苦労したんですね」っていう気持ちを、その人に合う言葉に変えて表現していることが多い。
別に、狙ってどうこうしようとしているわけじゃなくて、相手がそう言っている気持ちを考えると、出てくるのはそういう言葉になる。
なるほどなあ。
そこで、「すごいですね」で終わっちゃうと、相手も「これは理解されてないな」と思って、そこで会話も終わりになっちゃうだろうな。
そういう苦労話しを聞くと、想像して、自分もドッと疲れちゃう。
歯の治療の話しを聞くと、「あの音を想像するだけで痛い!」っていうことってあるじゃない?
そういうのが、自分の場合は、色んな話しに反応して出てくるんだと思う。
その、相手に共感する感覚って、どんな人と話す時でもあてはめられるね。
それはなんか、音ちゃんのキーワードがわかった感じがするな。
些細なことなんだけどね。
人が望んでることって、考えも及ばないくらいに逸脱することってなくて。
何かがほしいとか、お腹が減ったとか、人から好かれたいとか。
でも、それをいちいち指摘されたくもないだろうし、さとされたくもないだろうし。
そういう時に、一番相手が「そうなんだよ」って思える言葉を発する時に必要なのが「共感」っていうことなんだと思う。
そうだよね。
「まさに、これだ!」っていう言葉で表現するのって、大事なことだと思うし、その一言によって救われるってことあるだろうな。
そういうところにこだわるのは、自分自身がこれまで、理解されてないな、とか、正確な言葉で表現されてないな、とかっていうコンプレックスを常に抱えてたからなんだろうと思う。
そういう感情ってさ、みんな多かれ少なかれ感じてると思うんだよ。
誰でもみんな、自分の言葉でしか話せないからさ。
「今、一番言いたいことはこれなんだけど、思いつかない」とか。
「自分ではこの単語が一番わかりやすいと思っても、他の人には届かない」とか。
それを、他の人にトランスレートしてあげるっていうのが、人の中にいる時の俺の役割なんだろうなって考えてて。
それ、いいねえ。
それ、いい役割だよ。
つまりこういうことですよね?って言い換えてあげると、他の人も理解をして、その本人も「そうそうそう!」って言うような。
でも、いつも上手くいくわけじゃなくて、言った後に、周りがぽかーんとしちゃうこともあるし、「いや、そうじゃねえんだよ」って本人に言われちゃうこともあるんだけど。
(笑)「そうじゃねえんだよ」ってのも面白いな!
自分が上手く言えなかったことを、ズバッと一言で表現してくれた時ってすごく嬉しいよね。
代弁っていうよりも、擁護してもらったってぐらいの感覚なんだろうね。
そのことで、守ってもらえてる、とか、理解してもらえてる、っていう安心感につながったような時は、俺もすごく嬉しいと思う。
(2008年12月 白金高輪「音詩郎邸」にて)
【清水宣晶からの紹介】
音ちゃんは、いろいろな人を知っているというだけでなく、びっくりするぐらいに深く、一人一人とのコミュニケーションをしっかりと取っている人だ。
音ちゃんに初めて会ったのは、彼がまだ学生の頃だった。
自分の考えをはっきりと持ち、話しをすれば必ず独特の視点から鋭い意見を述べる姿は、当時集まっていた人々の中で最年少であったにもかかわらず、明らかに異彩なオーラを放っていた。
それもそのはずで、音ちゃんは何かを所有したり、何かの肩書きによって評価されることを望む人ではなく、ひたすらに自分自身の内面を高めることをのみ追求している人だった。だから、年齢の多寡にかかわらず、その内部に圧倒的な量の考えが蓄積されていたのは、たとえ学生の時分であっても当然のことだったのだと思う。
彼は、その後も変わらずに、世間並みの常識にまったく囚われることなく、自分の頭で考えて、自分のルールに則って生きている。そういう生き方をしている人を見知っているということは、随分と僕にとっても学ぶところが大きい。
音ちゃんは、いろいろな人を知っているというだけでなく、びっくりするぐらいに深く、一人一人とのコミュニケーションをしっかりと取っている人だ。
音ちゃんに初めて会ったのは、彼がまだ学生の頃だった。
自分の考えをはっきりと持ち、話しをすれば必ず独特の視点から鋭い意見を述べる姿は、当時集まっていた人々の中で最年少であったにもかかわらず、明らかに異彩なオーラを放っていた。
それもそのはずで、音ちゃんは何かを所有したり、何かの肩書きによって評価されることを望む人ではなく、ひたすらに自分自身の内面を高めることをのみ追求している人だった。だから、年齢の多寡にかかわらず、その内部に圧倒的な量の考えが蓄積されていたのは、たとえ学生の時分であっても当然のことだったのだと思う。
彼は、その後も変わらずに、世間並みの常識にまったく囚われることなく、自分の頭で考えて、自分のルールに則って生きている。そういう生き方をしている人を見知っているということは、随分と僕にとっても学ぶところが大きい。