中澤眞弓

子どもたちと大人の心の開放を願って、始めた森での保育。 森の力を頂いて、心の音が聞こえるほどに育まれている子どもたち。 心の音って聞こえるんだ!そんな宝もののような一日一日が積み重なって、どんな大人になるんだろう。 子どもたちと一緒にいられる日々が嬉しい。 |
(2025年1月 軽井沢「森のようちえん ぴっぴ」にて)
教育に正解を持っていない
(中澤眞弓:) 私、今年の8月で77になるんですよ。(清水宣晶:) なんと!
そうなんですか。

夫も同い年なんですけど、今朝、そのことを一緒に話してて。
振り返ってみて、面白い人生だったなあって思う。
まゆさんは、人生の中で多くの時間、幼稚園に関わっていたんですか?
そう。
大学生の時は、アナウンサーになるか幼児教育に進むか、すごい悩んだ。
話すことも好きだったし、その頃『お母さんと一緒』っていう番組の脚本のアルバイトでNHKに通ったりしていて、アナウンサーも身近なところで見ていたから。
でも、マイクを通すと、歯の間から雑音が漏れて、アナウンサーとしてやっていくのは難しかった。

私は団塊の世代で、学生時代は学園紛争があった時で、毎日デモをして、日本をどう変えるかとか、討論ばっかりやっていた。
自分の意見を持たないと生きていけないような時代だったから、ある意味では、面白い学生時代を生きたと思います。
どんな日本にするかって考えた時に、私はやっぱり、時間はすごいかかるかもしれないけど、平和を望む子どもたちを育てることで日本を作っていきたいって思った。
それが、幼児教育の仕事につながるんですね。
大学を出て、2年間幼稚園に勤めて。
夫の最初の赴任地が北九州だったので、そのときに幼稚園をやめて。
自分の子どもは自分で育てたくて、家で4人の子どもを育てて、子どもたちがある程度大きくなってまた復帰したっていう、そんな感じなんです。
子育て期間が、15年間。
お子さんが4人いたから、結構長かったんですね。
わたし、絵本が大好きで、うちに1万冊くらいあるんですよ。
その絵本を家庭文庫っていう形で貸し出したり、お話し会とかを毎週やってたので、うちにいっぱい子どもが集まるようになって。
近所の子どもたちと毎週のように図書館へ行ったり、みんなで人形劇作ったり、地域の中で常に子どもたちと一緒に過ごすような感じでした。
そういうときの、まゆさんの子どもたちとの接し方って、どこかで学んだものだったんですか?
それとも、自分で独自に考えたもの?

子どもが好きだったから、どうやって接するのがいいのかなって、いつも考えてはいたんです。
77歳になる今まで、いまだに今が面白いと思いながら生きてるっていうのは、私たぶんね、教育に正解を持ってないんですよ。
ほうほう!
それは、どういうことなんでしょう。
今日、目の前の子どもに起こった出来事とか、目の前の子どもの状況で、その日の正解を考える。
毎日新しい正解が出てきて、そのたんびに私は進化してるって思えているから、次の日を迎えるのが楽しい。
わりと若い頃から、そんな感じで考えるのが自然になってたと思います。
なにか決まりごとがあるわけじゃなくて、その場その場で、考えてるんですね。
そうそうそう。
私まだ、今やっていることが終わる感覚がなくて。
いつか終わりを考えなきゃと思ってたんですけど、今はあんまり考えないようにしています。
自分自身が、まだワクワクした気持ちで子どもと過ごせるんだったら、それはまだ続けられるっていうことなんだろうし。
そうですよね。
続けようと思うかぎり、定年なんてないから。
周りのみんなは、「まゆさん、もし体が動かなくなったら、座ってるだけでもいいから」って言ってくださるんだけど。

ぶはははは!
ただそこに居てくれればいい。
こうしなければならない、って今までどんなこともあんまり考えないできたから、いつ終わるかってことに関しても、自然な状況に任せようかなと思ってる感じです。
なんか、でもね。ぴっぴは日単位でも変わりますし、毎年毎年新しい子どもが入れ替わって、それもね、面白いですよ。
たしかに、それは飽きないですね。
あと、お母さんお父さんも毎年違うから。
もうとにかく、どの人も、どの子どもも進化してるし、どの大人だって、スタッフだって、毎日進化してる。
進化したもの同士で、また次の日を新しく作っているから、みんなが一緒に育ち合っていく感覚です。
2歳という年齢
まゆさんが、幼稚園を作ろうって思ったのは、何かきっかけはあったんですか?東京の幼稚園で働いていた時、親子関係が不自由そうだなと思う人がだんだん増えてきてたんですよ。
子どもたちは大人の顔色をうかがおうとしたり、依頼心が強くなってきてたり。

大人は、今を見ずに先ばかり考えているようだったり、「早くしなさい」とあせらせていたり。
親子を開放してあげたいなと思っていました。
その頃、うちの4人の子どもたちがみんな巣立って家を出て、夫と2人だけになったのが40代後半だったんです。
このまま東京都内で高い家賃払うよりも、ちょっと遠くへ行ってみる?って話して。
はい。
それで、いろいろな場所を見たんですけども、うちの4番目の子が長野県に3年間山村留学していたので、長野県が身近でした。
夫がまだ東京勤務でしたので、新幹線に乗れば1時間で行ける、ここにしようって言って、移住してきてしまいました。
それが軽井沢だったんですね。
こっちに来て、子育て支援センターや、絵本の森美術館で絵本の読み聞かせしたり、西部小学校の学童保育で働いたり。
焚き火カフェも始めました。
やり始めたら、来られてるお母さんたちが、「行きたい幼稚園がないのよね」って言うのを聞いて。
じゃあ、ちょっとこんな保育をしたいと思ってるけど、よかったら来ますか?って10人募集したら、10人ちょうど集まったっていうのが、ぴっぴの始まり。

スモールスタートですね。
東京で保育してた時に感じていたことですけど、幼稚園に3歳から入ってくると、もう、不自由な親子関係が出来上がっていました。
3歳の時点ですでに。
3歳の1つ前の、2歳っていう年齢は、いろんな能力がいっぱい出てくる時で。
言語もそうだし、感情もそうだし、運動能力とか手先とか、いろんな能力が出てくる。
2歳の段階から一緒にいてあげられたら、親子関係をちょっと風通しよくしてあげられるのかもしれないと思って、2歳児の保育をしたいなって、ずっと思っていました。
それで、ぴっぴは2歳児からの保育なんですね。
最初の2年間、2歳児だけの保育をやっていました。
「3歳の保育をやってほしい」という声があって、3年目に3歳児保育を作り、4年目に4歳児保育作り、みたいな感じで、今の形ができてきました。

まゆさんが、「森のようちえん」っていう形で保育をやろうと思ったのは、なにか理由があったんですか?
海外や日本の森のようちえんを知っていて、園舎がないイメージはありました。
園舎を作らなければ、借金をせず、やりたいと思った保育をすぐに始められるからっていうことがまず1つ。
はい、はい。
それからもう1つは、保育の質が落ちたら、いつでもやめられるようにと思ってたんです。
なるほど!
子どもの育ちが見えない、親のクレームがある、保育者が育たない…。
そういうことがあったら、いつでもやめようと思ってたので、まず、ハード面をなるべく簡素にしておきたかった。
その後、ずっと続いてるっていうことは、どれもダメになっていないってことですね。
そう、どれも全然ダメになってない。
だから、自分でも思いもしなかったほど、長く続いています。
物がない豊かさ
あっきー、その格好で寒くない?今日はめちゃくちゃ寒いです(笑)。

私、上も下も6枚ずつ着てるんですよ。
あ!そんなに。
アウトドアで座っているのが、こんなに寒いとは思わなかったです。
この中で遊んでいる子どもたちの、健気さというか、頑張りというか。
寒くても、中に入る場所ないから、室内にいる子たちよりもよほど困る経験をいっぱい積んでるわけですよね。

「みんな、寒くなったらどうする?」って聞いたら、子どもたちから出てくる答えは、「火にあたる」よりも、「走ればいい」とか「飛べばいい」とか。
誰かに頼ろうとしてないわけですよ、全然。
そういう考え方ができるのって、ちっちゃい時だからなんでしょうね。
他と比較したら不自由と思うけど、2歳、3歳だったら「これが当たり前」って受け入れちゃうから。
そう。
そういうの見てて、すごいなと思って。
めげずにみんな楽しんでいるのを見ると、なんかもう、子どもたちがほんと愛おしくなる。

たとえば物もないから、おもちゃも、枝とか葉っぱとかいろんなもので工夫して作り出すしかないし。
だから、「ない」ってすごい豊かなことだなと思って。
ここはほんとに、自然にあるもの以外、ほとんど何もないですね。
ぴっぴを始めた20年前は、今以上に何もなかったんです。
毎年、ふるさと納税とか寄付で、荷物置き場の屋根をつけていただいたり、小屋ができたり…。
だから、1期生、2期生、3期生ぐらいの人たちは、物が増えたねって、みんな言います。

始まりの時は、じゃあ、ただの広場。
そうそう。
あるのは、焚き火と、手作りの切り株と、机が3つぐらい、みたいな感じだったから。
だから今、たとえば頂き物とか、なにか購入してもいいとかって言われたりした時に、考えるようになりました。
本当に必要なのかなって。
物があることで、失われるものがあるんでしょうか。
長野県で、「森のようちえん」が15園ぐらいあるんですけど、ぴっぴ以外は全部、園舎を持っちゃったんです。
園舎を持つと、どういう変化が起こるんですか?
どうなったか聞いたら、「天気が悪いと、みんなすぐ室内に入っちゃうんだよね」って。
ああー、そうか。
寒いとか濡れるとかいうときに、選択肢があると、そういうものなんでしょうね。
ここの子たちは、寒くても暑くても大雨でも、普通に遊んでいます。
風が強い時なんて、ご飯にかけたふりかけが飛んでいってしまうような時がある。

それでも2歳でさえこうやって、上手に風を防ぎながら食べてて、こんなにいっぱい考えるんだと思ってね。
そういう一つ一つの子どもたちの姿が、愛おしいと思います。
「森のようちえん」っていうとき、定義としては、園舎は、あってもなくてもいいものなんですか?
外国でも、日本の中でも、園舎があるところもないところも、いろいろあります。
ただ、日本の場合は、園舎がないと、文科省の基準としては、認可外の幼稚園になるんです。
認可外だと補助金が出ないので、やっぱりそこは大きいんですよ。
なるほど!
幼稚園なら園舎はあるはず、っていうことなんですね。
何年か前に、文科大臣の方が来てくださったこともあって、今も国には、「私たちの園舎は森です」ってことを伝えています。
最初にぴっぴを始めた場所っていうのは、いま毎月、焚き火カフェをやっている広場ですか?

そうです。
今の場所と出会ったのは、西部小学校の学童をやってた時に、子どもたちとお散歩に来たのがここでした。
見た瞬間に、2歳児にとってすごくいい場所だと思った。
大きい子たちだったら、多少でこぼこがあって転んだって平気だけれど、2歳児は転んで泣いての繰り返しにならないよう、平地が必要だと思いました。
卒園する子が出始めた時に今のぴっぴの森を購入しました。
これからいろんな悩みを持ったり、親に言えないようなことがあっても、ここへ来て、ちょっと立ち止まれたり、リセットできたり、幼児期の頃を思い出してリフレッシュできたり、家庭とは違う居場所を作ってあげたいなと思いました。
それで、今も、卒園した子や保護者がたくさん関わっているんですね。
この場所は最初、全部、森だったんですよ。
横浜にある関東学院っていう学校が持っていた土地で、風越学園を作った本城慎之介さんと2人で出向いて、売ってくれるよう頼みに行きました。
同じように教育を大事にするところに使ってほしいと思ってたからって、売ってくださった。
それでこの場所に、7年目ぐらいに移りました。
ここは、すごく落ち着く、いい場所ですね。
あっきーもこの場所にいると感じるかもしれないけど、ここの周りは崖に囲まれてるんですよ。

ほんとだ。
外なんだけど内なる世界みたいな、ちょっと「抱かれ感」があるんですよね。
周りの道路も、郵便屋さんとか宅急便屋さんが入ってくるぐらいで、他の人はまず入ってこないでしょ。
外なんだけど、想像以上に落ち着いた空間なんです。
たしかに。
この中だけ、別世界みたいな感じがします。
ケンカも大事なコミュニケーション
ぴっぴでのやり方は、始まった当初から、変わったことはありますか?
深まってはいると思うけど、基本的な部分はまったく変わってない。
基本は「ありのまま」。
ありのまま。
たとえば、子どもが泣くということをまず否定的に捉えることはない。
ケンカも、やめさせたり、ごめんなさいをすぐに言わせて終わらせることはないです。
ぴっぴでは、はじめからケンカを大事にしていました。
ケンカしてもいいよ、いっぱい気持ちを話して、相手の気持ちを聞いたら、もっともっと分かり合えて仲良しになれるよ、と話してきました。
そうですね。

ケンカが悪いことではないし、泣くこともまったく悪いことではない。
泣くことで自分を癒してることもあるし、泣くことで育ってる子もいる。
どんなこともきっと必要なことって思えると、こちらの言葉かけも、ダメという言葉使うことはまずなくて。
いろんなこと一つ一つを、否定的には捉えないっていう感じかな。
ケンカがあったときって、どのぐらい大人が介入するものなんですか。
まず、フェアじゃないケンカは声をかけます。
1対4とか、おっきい人とちっちゃい人とか、棒持ってる人と持っていない人とか。
いろんな形でフェアじゃないケンカってあるから、そういう時はそばに行って、やめさせるんじゃなくて、なんかフェアじゃないみたいっていう声はかけはする。
なるほど、なるほど。
そしたら子どもたちもハッとして気づいたり。
子どもたち自身がそうやって声をかけられてきてるから、お友達のケンカに出会っても、「話し合ってごらん」と、周りの子たちが間に入っていく。
そうですよね。

なるべく大人があまり言わずに、子どもたち同士が主体的に考えられて、自分たちで解決して、みたいなことを大事にしてあげたいっていうのがベースにはあります。
大人が入ると、普通はやっぱり、まず謝らせますよね。
その日のうちに終わらせるために。
ケンカもすごい大事なコミュニケーションの一つだなと思っていて。
子どもたち自身がいっぱい困ったり、安心できる中でいっぱい失敗しながら、自分で答えを探ってもらえるといいなと思います。
毎日ほんとに、何が起こるかわからないから面白いですよ。
私も、困ることはいっぱいあるし、あの時はなんて言ってあげるべきだったんだろうとか、家に帰って悩むこともいっぱいあります。
自分でできた喜び
「森の開放日」という、ぴっぴの一日体験をする日があるんです。そこに来られる方たちは首都圏の方が多いんですけど、子どもが木に登ろうとすると、お母さん、お父さんはすぐ持ち上げて、登らせようとする。

うんうん。
それで登れると、やっぱりその子は、高さをわかってないから、降りるときに危ないんです。
自分で登れた子どもは苦労して登ってるから、降り方もわかっている。
ぴっぴでは、簡単に成功させるのではなくて、できるまで待ってあげたい。
早くできるのがいい、っていうわけじゃないんですね。
いつかはできるようになる、っていう楽しみを持っているって、生きていくのが楽しいじゃないですか。
大きくなることだって嬉しい。
自分でできた、という深い喜びを味わうことを、繰り返し経験させてあげたい。
だから、たとえば、あの崖を登るのでも、誰も手は出さない。

あそこの斜面を登っていくんですね。
常に私たちが言っているのは、「自分で登れるところまででいいんだよ」「手は繋がないよ」ってこと。
その代わり、おおきい子たちがみんな、ここの根っこに捕まるといいとか、足をこうすればいいとか、踏ん張ればいいとか、アドバイスをする。
困ったらレスキュー行くぞ、って言ってくれるんだけれど、誰も手は繋がずにやり方を教えるんです。
2歳の後半にみんな大体登りきれるんですけど、もう、その時の喜びってすごいです。
待って待って、苦労して苦労して、やっと自分で登れた時の喜びって、本当に大きいんです。
すごい。
そうやって喜んだ経験って、ものすごく大事だと思う。
でも、そういう接し方も、はじめから答えがあったわけではないです。
子どもたちと一緒に過ごしながら、答えが出てきた感じかな。
道具っていうのは、どのぐらいまで使うものなんですか。
なにか物を作るときでも、あったら便利な道具ってあるじゃないですか。
あのログハウスの横は「大工コーナー」って呼ばれてて、壁に金槌が3本とノコギリが3本かかってるんです。
あの高さは意識して作っていて。
2歳とか3歳が勝手に使えるものではなくって、あの高さが手届く子は、だいたい4、5歳児なんですよ。

そういう風に置かれてるんですね。
手が届く子たちは自分でそこで道具を持って行って、釘もあるので、いろんなものを作ります。
「やりたい」に答える最低限のものはなんだろうってことはいつも考えています。
そうですよね。
すごい便利な道具があったら、簡単すぎちゃうみたいなことになるから、難しいですね。
でも、やっぱり砂場で遊ぼうと思ったら、ちょっとした砂場道具が必要になってくるので、少しずつ増えました。

たとえば、こうやって押し車が一つあることでコミュニケーションが広がったり、ごっこ遊びが広がったりっていうのがある。
本当に何が必要かを、考えています。
子どもも大人も育つ場
子どもたちが、安心できる中で、失敗とか困った体験を山ほどさせてあげたい。同じように、大人にも体験数がないと、危ないと言ってやめさせたり、否定してしまいます。
保護者たち、保育者たちの体験が大切だと思います。
そうですね。
体験がないと、どの程度まで見守っていいかもわからないし、不安になるのはわかります。

保護者たちには、「ぴっぴって、子どもが育つ場が半分、大人が育つ場が半分。」と言われます。
ああー、それは、本当にそうでしょうね。
大人が学ぶ場だということを実感しているようです。

本当に、私は面白い仕事に出会ったと思います。
本当に、自分に合う仕事に出会った。
そんなふうに、好きなことで、ずっとやり続けられる仕事に出会うって、なかなかないでしょうね。
ありがたいなと思います。
だから、うちの子もそうだし、ここで出会う子どもたちも、好きなことが見つかるといいなと思います。
(2025年1月 軽井沢「森のようちえん ぴっぴ」にて)
【清水宣晶からの紹介】
まゆさんは、幼児保育とともに長年歩んできた人です。
子どもを育てる、というのは、答えがない、とても漠然としたものだと思いますが、その掴みどころのなさを面白がれる人だからこそ、ずっと現場で子どもたちに向き合うことを楽しみ続けているのだと思います。
まゆさんと話していて感じるのは、とにかく考え方が柔軟だということです。
ぴっぴでは、毎日が新しい出来事にあふれていて、それを歓迎して、まゆさん自身も常にアップデートしようとしています。
子どもが成長する場であるだけでなく、スタッフも、保護者も、みんなが一緒に成長する場。
こういう環境だからこそ、みんながぴっぴを大事に思い、その場がさらに暖かく育まれている気がします。
まゆさんがとても大切にしているのが、2歳児の段階から保育を始めるということです。
人間のいろいろな能力が開花する、人生の中で最も成長が著しい時期を、森の中で過ごすことをとても大事にしてきました。
ぴっぴで遊び、走り回る子どもたちの姿を見ていると、どうか少しでも多くの世の中の子どもたちが、2歳の時期を豊かに過ごす機会を持つことができますようにと願わずにはいられません。
まゆさんは、これだけずっと幼児保育を続けてきて、毎日毎日考えて、実践して、それでもなお、「教育に正解を持っていない」と言います。
そう言えるまゆさんだからこそ、僕は信頼できるし、多くの人たちが子どもを託したいのだと思います。
毎年、密度の濃い時間を過ごした卒園生たちが巣立っていき、ぴっぴで培われた種子を伝播させています。
その小さな積み重ねが、いつか大きなうねりとなって、学校や社会の固定観念を変えていくような気がします。
卒園生の子たちがきっと折りにふれて思い出す、軽井沢の森の中では、春夏秋冬いつでもまゆさんがみんなの帰りを待っています。
まゆさんは、幼児保育とともに長年歩んできた人です。
子どもを育てる、というのは、答えがない、とても漠然としたものだと思いますが、その掴みどころのなさを面白がれる人だからこそ、ずっと現場で子どもたちに向き合うことを楽しみ続けているのだと思います。
まゆさんと話していて感じるのは、とにかく考え方が柔軟だということです。
ぴっぴでは、毎日が新しい出来事にあふれていて、それを歓迎して、まゆさん自身も常にアップデートしようとしています。
子どもが成長する場であるだけでなく、スタッフも、保護者も、みんなが一緒に成長する場。
こういう環境だからこそ、みんながぴっぴを大事に思い、その場がさらに暖かく育まれている気がします。
まゆさんがとても大切にしているのが、2歳児の段階から保育を始めるということです。
人間のいろいろな能力が開花する、人生の中で最も成長が著しい時期を、森の中で過ごすことをとても大事にしてきました。
ぴっぴで遊び、走り回る子どもたちの姿を見ていると、どうか少しでも多くの世の中の子どもたちが、2歳の時期を豊かに過ごす機会を持つことができますようにと願わずにはいられません。
まゆさんは、これだけずっと幼児保育を続けてきて、毎日毎日考えて、実践して、それでもなお、「教育に正解を持っていない」と言います。
そう言えるまゆさんだからこそ、僕は信頼できるし、多くの人たちが子どもを託したいのだと思います。
毎年、密度の濃い時間を過ごした卒園生たちが巣立っていき、ぴっぴで培われた種子を伝播させています。
その小さな積み重ねが、いつか大きなうねりとなって、学校や社会の固定観念を変えていくような気がします。
卒園生の子たちがきっと折りにふれて思い出す、軽井沢の森の中では、春夏秋冬いつでもまゆさんがみんなの帰りを待っています。