小園拓志
1977年生まれ。 東京大学卒業後、地元の北海道新聞社入社。 2018年9月、札幌から御代田町に移住。 2019年2月から御代田町長。 「小園拓志(こぞのひろし)オフィシャルサイト」 https://www.kozono-hiroshi.com/ |
(2024年3月 長野県御代田町にて)
小さい違和感を大事にする
(小園拓志:) 今日は浅間山から、噴煙が出てますね。朝は曇っていましたけど、晴れてよかったです。
(清水宣晶:) 小園さん、
この「かりん道路」から見る浅間山が好きっておっしゃってましたね。
やっぱり浅間の正面というか、
ここが一番きれいに見えるんじゃないかなと。
役場からだと、少しだけ山が近くなるんですよね。
それはそれでいい眺めなんですけど。
小園さんの出身の、北海道の沙流郡というのは、
御代田町と景色は似ているんですか?
どうですかね。
出身の地域は、日高昆布の発祥の地なんです。
そのぐらい海が近い。
あ、そうなんですか。
お父様が馬の獣医をされていたと聞いたので、
草原の中の風景を想像していました。
風向きによっては、我が家にいても、
磯の香りが十分に届くぐらいだったから、
意外と海の町ですね。
日高って、すごく海に迫ったところに山脈があって。
その間の細いところで馬の生産をしてるんです。
じゃあ、北海道といっても、
雄大な地平線が広がってるような景色じゃなく。
どっちかっていうと、
私は海の近くに育った意識ですね。
そうなると結構、根本的に御代田の風景とは違うんですよ。
そういう場所って、馬には良さそうな感じがします。
潮風で美味しい牧草が育つような。
そうかもしれませんね。
羊は、モンサンミッシェルの海岸の近くで育つのが最高級で、
肉が美味しくなるとか言いますけど、馬はどうなんだろう。
競走馬ってやっぱり元々、アラビアの産物なので。
サラブレッドは、アラブのルーツが多いですよね。
寒い場所だとあまり向かないような。
だから、北海道の中でも、
北の方だとちょっと難しいと思うんですよ。
ある程度広大な土地があって、それなりに気温があるところっていうと、
やっぱり日高が割とちょうどいい場所だったのかなと。
通っていた小学校は、
どのぐらいの規模だったんですか?
御代田北小学校と同じぐらいなんですよね。
全校生徒が200人ちょっとで。
じゃあ、学年に1クラスか2クラスぐらい。
私の学年で42人だったかなあ。
たしか、1、2年生の時だけ2クラスで、
あとはずっと1クラス。
今はもう、全然少ないと思います。
私は第2次ベビーブームの終わりの方なので、
やっぱり子供が多い時期でしたから。
日高ってところは、給食もないような本当の田舎で。
そうなんですか!
公立の小学校って、給食はどこでもあるのかと思ってました。
全国で給食を提供してる学校って、実は全然100%じゃなくて。
給食制度が始まったのも、そんな大昔じゃないんですよ。
私のときは、牛乳代を払って、牛乳だけ配布された覚えがあります。
で、ちょっと今の私の仕事に関係があるのが、
2019年の2月に初当選をした後、
翌年の7月から給食費を無償にしたんです。
最初の選挙の時に、
公約として掲げていたことですね。
なぜその政策を立てたかっていうと、
全国的に給食費を無料にするっていう流れもありましたけど、
根本は、私自身の小5ぐらいの頃の記憶にあって。
授業で日本国憲法について勉強したとき、
『義務教育は、これを無償とする』っていう一文があるわけですよ。
「あれ?だけど牛乳は無償じゃないよな。なんか変だな」
ってその頃から思っていたんです。
学校に来て、自分だけ牛乳はいらない、
ってわけにはいかないですもんね。
公約に掲げた「給食費の無償化」は、
自分の小学校5年の時の疑問を、
30年ごしに解決するっていう意味もあったんです。
なんていうか、町民の感覚としては、
ちょっとした違和感みたいなことが積み重なって、
町政への不信に繋がったりするので。
はい。
大きく変なこと、っていうのは誰かが必ず解決するんだけど、
ちょっと変なこと、って長く放置されがちなもんですから。
それを1つでも2つでも解決していくってことが大事で。
そういう時に、私が小学生の時に思った感覚とか、
小さな違和感を大事にしたいなという風に思ってますね。
小園さんのやり方は、そうですよね。
大きな改革っていうよりは、
小さい改善を何十個も重ねて、
少しずつ変えているように感じます。
週に1つのペースで変えていきたいとは思っていて。
なんかそのぐらいの方が、
町民目線に合ってる気がするんです。
たしかに、小さい事がたくさん変わってる、
っていうほうが、変化している実感があると思います。
小園さんはX(twitter)の発信を見ても、すごくマメですよね。
前はもっとたくさんやってたんですけどね。
できれば毎日1回は発信した方がいいかなと思っていて。
日常的に発信してる人だと思われることは大事なんだろうなと。
やっぱり、数の信頼性っていうのはあると思います。
清水さんがやっているインタビューも、
今まであれだけたくさんの人に会っているという実績があることで、
信頼性が担保されてると思いますし。
ありがとうございます。
小園さんは、発信の数も多いですけど、
ご自身でみずから直接やっているのがすごいと思います。
発信している内容が全部、
自分の目で見たことや、体験したことですもんね。
そうですね。
ただ一方で、組織を動かしていく中で、
全部私が直接やる状況にしすぎるのも良くないかなっていうのは、
ジレンマとしてあるんですよ。
本当はやっぱり、なるべく任せてしまって、
定期的に報告さえもらえばいい状態を
多く作っていけた方が、よりいいわけです。
正直ね、トラブルがない日ってないんですよ。
そうなんですか!
毎日必ず、何かしら小さいトラブルはあるんです。
「今日はなにもなかったな」って日が記憶にないぐらい、
実はいろんなことが起きていて。
だから日常的なトラブルを解決できるように、
スムーズに流していかないと。
自分が全部知ってなきゃいけませんよっていうスタイルは、
できるだけ取らない仕組みに変えていってはいますね。
数字に基づいて考える
勉強とか、学ぶこととかは、子どもの頃から好きだったんでしょうか。
数字への執着がすごくあったみたいですね。
母に聞くと、銀行っていう場所が私はすごく好きだったそうで。
通帳に数字が並んでるを見るのがすごく好きだったんですよね。
金額がどうこうってことじゃなくて、
ただ数字が並んでるものを見るのがすごく好きだったみたい。
うんうんうん。
いまだに、運転してる時にナンバープレート見ると、
11で割れるかなとか、どの数で割れるか都度考えてますよね。
ああー、わかります!
一番やってるのが多分「9で割り切れるか」で。
あと、上2桁で下2桁を割れると嬉しい。
「28-84」だったら、「おお、ちょうど3倍だな」とか。
そういうのは、今日現在でもしてます。
ぶははははは!
それは相当、数字が好きなんですね。
最近あった話なんですけど、
町の予算書っていうものがあって、
それが1100ページぐらいあるんです。
うちの職員を信頼してないわけじゃないけど、
人間誰しも間違いがあるから、
私が1ページずつ見ながら、検算をしてるんです。
で、実際今回、間違いを見つけたんですよ。
おお!
50万円を38人につける予算があって、
暗算すれば1900万になるはずなんですけど、
それが1億9000万って書いてあって。
桁が1つ違う(笑)。
もしそのまま通してたら大変なことになってましたね。
そう、議会に出してからだと、
そこからの訂正ってすごい大変なので。
そんな細かいところまで見てるんですね。
それは、日頃のナンバープレートの訓練が活きてますよ。
数字好きっていうのは、この仕事、
実はすごく合ってるだろうなと思ってて。
仕事は基本的に、予算に表現されてるわけだから、
結局全部、数字に変換されてるので。
別にわたし、数字が冷たいもんだとは思わなくて。
単に理詰めで物事をやりたいと思ってるわけじゃなく、
やっぱり数字に基づいて物事を話した方が伝わりやすいし、
そこはあんまり横着しないでやりたいなと思ってるんです。
阪神大震災の現場で
小園さんは、中学校が神戸ということは、その頃から親元を離れて、寮生活だったんですか?
寮じゃなくて、下宿屋さんてのがあるんですよ。
大家さんが洗濯とか、朝晩の食事を用意してくれて。
だから、アパートを借りるのとは全然違う。
大家さんが明治生まれのおばちゃんでね。
私が入った時で、もう80超えてました。
で、わたしが高2の時の1月に、
阪神淡路大震災があって。
あ!
そうか、ちょうどその時期に神戸に。
住んでいた下宿が全壊しちゃって、
目が覚めたら、2階のわたしの部屋が下に落ちて、
1階になってたんです。
ええええ!
でもそれは、助かってよかった。
阪神大震災を、被災地の中で、
かなり身近に経験してるんですね。
火事で亡くなった人が1番多いのは長田区なんですけど、
地震そのもので亡くなった人が1番多いのは、圧倒的に東灘区で。
灘の辺りって、
そんなに被害が大きかったんですか。
結果的にそうだったんでしょうね。
うちの高校の体育館が、ご遺体の安置場所になっていて、
200体ぐらい運ばれてきたんじゃないかな。
私は、遺体の数を数えて区役所の人に報告するようなこともやっていました。
「線香をあげたいから、入口のところの砂を入れてもいいですか」
って私に尋ねてきたご婦人がいて。
私、体格が今とあんまり変わらないので、先生に見えるんですよね。
粗末な毛布でくるまれてるだけの遺体に、
お線香をあげるというようなことを皆さんされてて。
かなりハードな体験ですね・・・。
だから私、防災のことは結構、
そういう意味で思い入れがあるんですよ。
ここらへんはあんまり地震はないですけど、
いずれ浅間山の噴火はあるかもしれないですね。
そのことなんですが、
御代田町の人が言うことで、私が少し心配に思っているのが、
「ここらへんはあんまり地震はないから」っていう言葉で。
あ!はい。
神戸も、あんまり地震がない場所って言われてましたからね。
あと、私が6年前に御代田に来た月に、
北海道で胆振東部地震っていう大きな地震がありましたけれど、
大正から平成までずっと、震度5以上の地震って1回も起きてなかったんですよ。
そうなんですか。
この辺も何があるかわかんないですね。
地震が起こりそう、と言われている場所って、
今の時点で活断層が見つかっている、というだけの話なので。
だから日本国内で、ここが絶対安全っていうのはあんまりないだろうなと。
あと、地震がないのと、地震の被害を受けないというのは全く別の話なので、
たとえば南海トラフが起きて、中部の浜岡原発とかが止まっちゃうと、
確実にこの周辺の町も影響を受けます。
我々は物を輸入する場所から遠いところにいますので、
間接的な被害は、かえって長野県の中の方が大きくなる可能性はあります。
たしかにそうですね、
海から遠いですもんね。
なので、ここから1年ぐらいかけて再生可能エネルギーの導入計画は作って、
役場の周辺だけでもマイクログリッドで電気を生かしておけるようにしたい、
とは思ってますね。
各家庭でも、それぞれに太陽光発電を屋根の上に取り付けるとか、
そういうことはぜひしてもらったほうがいいなと思います。
中間にいるのが面白い
今回みたいなインタビューや、取材のようなものは、多分、小園さんの方がずっと場数を踏んでるんじゃないでしょうか。
新聞記者という職業もそうですけど、
高校時代から新聞を作っていたんですよね。
あの高校はね、
新聞も結構面白かったなと、私は思ってまして。
ようは、学校の中のことをいろいろ調べていく係なんです。
それは部活ではなく?
委員会ですかね。
その当時、子供が生まれた先生がいたので、
インタビューをしに行ったら、
「赤ちゃんて、ほんまに赤いねん。
だから、赤ちゃんっていうんやな。」と。
これは面白いこと言うなと思って。
その記事は「赤ちゃんて、ほんまに赤いねんな」
っていうのを見出しにしたのが、すごく印象に残ってますね。
見出しで勝負する、みたいな意識は常にありました。
大学で、立花隆ゼミに入ったんです。
1冊の本を書くには200冊ぐらい読まなきゃダメだぞって、
そういうインプットの仕方でしたね。
そうか、ゼミでも立花隆さんってことは、
もう高校や大学の時からずっと、
ジャーナリストの道だったんですね。
そうですね。
昔から目線はそういうところがあったのかなって思います。
私、割と人見知りというか、
あんまり友達付き合いが広いタイプじゃないんですよ。
で、カメラ持ってたりペン持ってたりすると、
なんか近づきやすかったりするじゃないですか。
わかります。
だから、人見知りな部分を補うために、
新聞委員会というフィルターで関係を作っていったという、
そういう意識は常にあったような気がしますね。
小園さんの中で、
いいインタビューの基準のようなものってありますか?
それは結構、明確にあって。
どの文献にも、本人が書いたものにも載っていない、
新しい話が出てきた時が一番面白いです。
ああ!
私もすごく同感です。
でもそれって、
今までにその人が出したものを全部読んでないと、
到達できないんですよ。
「そこまで知ってるんだったら、
さらに深いところを話さなきゃいけないな」
っていう風に思わせられたら勝ちだなと思ってて。
そうですね。
小園さんは、町政に関わることはよく発信をしていますけれど、
今まであまり、生い立ちの話はされていないと思ったので、
今回は、学生時代の話を聞くのを楽しみにしていました。
自分の学生時代は、法学部の授業もあんまり受けてないし、
ほとんど立花ゼミでの活動がメインだったんです。
単位を取り終わった後でもゼミに出入りしていて、
『20歳のころ』っていう本を分担して書くのが、
教養課程にいた1年生、2年生の時のテーマでした。
そんな本、ありましたね!
いろんな人の20歳の時の話を聞くっていう。
大学卒業後に、文庫版が出ることになって、
そのとき私はもう現役の記者でしたが、追加収録で、
当時20歳になった「モーニング娘。」の飯田圭織さんを担当しました。
卒業後の進路を決める時にも、
大学院に行くか、北海道新聞社に行くか、
悩んでいたときに立花先生に手紙を書いて、
小石川の「猫ビル」っていう、
先生が拠点にしていたビルに直接投函しに行ったんです。
その日の夜中に、
「読んだよ」って、電話がかかってきて。
北海道新聞社に行けば大学院の何倍も勉強になるんだから、
ぜひそうしなさいって言われて、
私はほぼ、先生の一言で就職を決めちゃいましたね。
じゃあ、立花隆さんと会ってなかったら、
全然違った道を進んでたかもしれないですね。
影響はやっぱり、とても大きいです。
立花先生の縁で、筑紫哲也さんや、坂本龍一さん、川上哲治さん、小川国夫さんにもお目にかかることができました。
立花ゼミの時、いろいろな人に話を聞きに行きましたが、
逗子市長だった富野暉一郎さんが、
当時、島根大学の法文学部の教授をされていて。
先生のお宅に5人ぐらいで押しかけて、
3泊4日でずっと話を聞くっていう体験をしたんですけど、
そのとき、市長としての振る舞いについても随分聞いて。
3日目の夜にうなぎ屋さんに連れてってもらったんですよね。
はい。
帰り道、先生もクタクタだろうけど、話を聞いてる方もクタクタで。
だけど私だけ、助手席だから寝るわけにもいかないと思って、起きてたんです。
そのとき、先生がおっしゃってたのが、
「小園くんね、人として生まれたんだったら、1回は市町村長ってやるもんだよ」って。
ぶははははは!
それ、すごい言葉ですね。
人として生まれたら、1回は首長にならなきゃいけないのか・・って、
結構真に受けたんですよ。
じゃあ、それを目指すんだったら、
北海道新聞の支社を2か所ぐらい経験した後、
すぐ立候補しようと思ってました。
だけど、なんか結構、仕事が面白かったんです。
新聞社にいた時に、労働組合の青年部長をやったりとか、
法務担当になったのも、私にとってはとてもいい経験で。
今でも契約書は、法務担当がいないので私が見るんですよ。
数字と法務の両方がわかるっていうのは、
すごいことですね。
そこはやっぱり、
理系高校で育った文系人間なので、
ハイブリッドになっているっていうのが、
もしかすると、私の特徴かもしれないです。
小園さんは、スペシャリストっていうよりは、
総合的に、いろんなことを組み合わせてる感じですね。
そうですね、ジェネラリストの方です。
新聞社の仕事ってわりかしそうなので。
たしかに、新聞社もそうですけど、
政治家っていう仕事も、
幅広い分野の知識がある人が向いている気がします。
中間にいるのが面白いっていう感じがするんですよ。
理系学校の中の文系人間、みたいに、主流の中の外側にいることが実は、
自分のポジションを一番面白いところにおけるんじゃないかって思ってます。
(2024年3月 長野県御代田町にて)
【清水宣晶からの紹介】
軽井沢と小諸と佐久の間に位置する御代田町は、いま移住者が急増している町です。
小園さんは長野県内最年少の首長として2019年に初当選した直後から、新しい施策を次々と導入してきました。
そのことで、御代田町の変化にはさらに弾みがついています。
私は今回、小園さんにお話しを聞きに行くのを、ものすごく楽しみにしていました。
小園さんご自身、これまでtwitterやホームページで頻繁に情報発信をしてきているので、町政についての考え方はよく伝わっていましたが、小園さんの生い立ちについてはあまり語られることがありませんでした。
北海道の小さな町に生まれ育ちながら、全国屈指の名門校である灘中に合格し、親元を離れて神戸に暮らすことになった少年時代がどのようなものだったのか。
そのことにとても興味があり、お話を聞き始めましたが、どんな話題を振っても面白い話が出てきて、いつまでも話が尽きることがありませんでした。
それは小園さんの圧倒的な知識量と、聞き手を楽しませるサービス精神の表れだったと思います。
今回は、浅間山を見渡せる広場で、学生時代からの思い出を振り返っていただきました。
軽井沢と小諸と佐久の間に位置する御代田町は、いま移住者が急増している町です。
小園さんは長野県内最年少の首長として2019年に初当選した直後から、新しい施策を次々と導入してきました。
そのことで、御代田町の変化にはさらに弾みがついています。
私は今回、小園さんにお話しを聞きに行くのを、ものすごく楽しみにしていました。
小園さんご自身、これまでtwitterやホームページで頻繁に情報発信をしてきているので、町政についての考え方はよく伝わっていましたが、小園さんの生い立ちについてはあまり語られることがありませんでした。
北海道の小さな町に生まれ育ちながら、全国屈指の名門校である灘中に合格し、親元を離れて神戸に暮らすことになった少年時代がどのようなものだったのか。
そのことにとても興味があり、お話を聞き始めましたが、どんな話題を振っても面白い話が出てきて、いつまでも話が尽きることがありませんでした。
それは小園さんの圧倒的な知識量と、聞き手を楽しませるサービス精神の表れだったと思います。
今回は、浅間山を見渡せる広場で、学生時代からの思い出を振り返っていただきました。