岩瀬直樹

1970年、北海道生まれ。 東京学芸大学大学院教育学研究科修士課程修了。 埼玉県の公立小学校教諭として、4校で22年間勤め、学習者中心の授業・学級・学校づくりに取り組む。 2019年10月学校法人軽井沢風越学園設立、理事就任。 軽井沢風越学園 校長。 3児の父。 |
(2024年10月 軽井沢風越学園にて)
学校から早く帰って遊ぶぞ
(岩瀬直樹:) いい天気ですね!
(清水宣晶:) ほんとうに。
今日はテラスが、すごく気持ちがいい。

ゴリさんは、風越学園のことについては、これまでたくさん話しをしてきたと思うんですが、ゴリさん自身の生い立ちって、あまり話したことがないんじゃないですか?
たしかに。
あんまり話す機会なかったですね。
今日は、今に至るまでのゴリさんのライフストーリーを聞いて、これは今まで考えたことがなかったなっていうことを、見つけてみたいと思っているんですが。
面白い!
それでいきましょう。

ゴリさんは、生まれは北海道でしたか?
そう、北海道の札幌です。
小学生の時って、どういう感じの子供だったんでしょうか。
僕は、いわゆる動き回るのが得意な子供で、多動な子だったと思うんですよね。
特に低学年、中学年の頃は、教室の中を動き回ったり、大きい声で騒いだり、みたいな感じだったらしくて、通知表の所見には、「落ち着きがないです」とか「自分のやりたいことがあっても我慢して譲ってあげましょう」って書かれてました。
エネルギーがあり余ってますね。
市営住宅の団地に住んでたんですけど、学校から走って家に帰って、真っ暗になるまで、団地の中の空き地で遊んでました。

団地に住んでると、家の外に出れば、そこに誰かしらがいる感じですよね。
そうそう。
団地が4階建てで20棟ぐらいあったから、すごい数の人が住んでいたと思います。
そこだけで野球チームができるぐらい子どもがいて、僕はそのチームに入ってました。
広い空き地があって、そこで野球やったり、雪合戦やったり、コマやったり、もう、ずっと遊んでいたって記憶です。
それは大きい原体験だったなって、やっぱり思います。
学校は授業を受けてくる場所、という感じだったので、学校が終わったら早く帰って遊ぶぞ、って。
学校は決められたことをやる時間で、学校から帰った後が、好きなことを好きなだけやれる時間。
やっぱりエネルギーがあり余ってる子だったので、放課後にいろんなことをして遊ぶことがとにかく楽しくて、一通りの遊びはしたんじゃないかな。
ちっちゃい頃は上のお兄ちゃんたちに混ぜてもらって遊んで、自分が大きくなると下の子たちを巻き込みながら遊ぶ、っていうことは日常的にやってたなと思います。
それは、異年齢の遊びの楽しさですね。
野球をやるにも十分なスペースがあったし、鬼ごっこもかくれんぼもドロケイも、何でもできるぐらいの広さがあった。
使い道が自由な公園が目の前にあるような感じだったですね。
今見に行くと、こんな狭かったっけ?って思うんですけど。
もともと、ご両親も北海道の出身だったんですか?
そう。
両親とも札幌出身なので、そこが地元で。
団地って、地元の人よりも、新しく移り住んできた人が多いイメージですけど、昔からの家に住んでいたわけじゃなかったんですね。
市営の団地に住んでたのは、家賃が安かったから。
うち、すごい貧乏だったんですよ。
両親は高校時代の同級生で、同窓会で再会して、まだ学生だった22の時に結婚してるんです。

父は、修士、博士と大学院に通ってたから、ずっと就職しないまんま、アルバイトしながら子供を育ててた。
多分、生活保護も受けてたんじゃないかな。
ゴリさんが生まれた時も、まだ学生だったんですか?
生まれた時もだし、僕が中学に上がる頃にようやく大学に就職が決まるまで、ずっとアルバイトで食いつないでたと思います。
だから、結構大変だったんじゃないかな。
大学に就職するまでは、研究とアルバイトの両立で。
博士論文を書きながら、家庭教師とか、大学の非常勤講師をしてたんでしょうね。
でも非常勤の給料って安いので、それだけじゃ食べていけないから、いろんな仕事をしてたみたいで、僕も新聞配達とか手伝った記憶があります。
僕の下にも兄弟が2人いるので、よく家族5人を養ってたなって思います。
お父さんお母さんと過ごす時間よりも、友達と遊ぶ時間のほうがずっと長かったですか。
母親は専業主婦だった時期も長くて家にはいたんですけど、団地の中なら、子供が外で遊んでいればベランダから様子も見えるし、そこで集まって遊んでれば親も安心で。
毎日とにかく暗くなるまで、大勢でよく遊んだなっていう記憶があります。

それはじゃあ、小学校時代ってのは総じて楽しい思い出ですね。
うん。総じて楽しかったなって思います。
でも小6の時、強烈に印象に残っている出来事があって。
クラスでグループ学習をしていた時に、同じグループの女の子に「みんな、あんたのこと我慢してるんだからね」って言われたことがあって。
ハッと周りを見回したら、みんなが「そうだそうだ」みたいな顔してるように見えたんです。
うわーー、
それはドキッとしますね。
「あ、俺、なんか我慢されてたんだ」って思って。
それまではガキ大将で、周りの子たちを引き連れて遊ぶリーダーシップもあって・・っていう自己認識だったんだけど、その出来事がきっかけになって、自分が周りからどう見えてるのか、みたいなことがすごく気になるようになったんですよね。
ゴリさんには、面と向かって指摘しづらいような雰囲気だったんでしょうかね。
やっぱり、結構わがままだったんだと思う。
良くも悪くも、自分のやりたいことでグイグイ場を作っていくタイプだったから。
自分はそれが楽しいと思ってたし、それでみんなに迷惑かかってるとも思ってなかったから。
でも、その一言はすごく強烈でした。今でも、そのシーンは鮮明に覚えてるので。

言われてから、行動って変わりましたか?
いや、そんな劇的には変わらなかったと思うんですけど。
でも、今聞かれて思い出したのは、その頃にちょうど遠くに引っ越すっていう話しが親から出てきて。
で、ちょっと助かったって思った記憶ありますね。
いったんリセットできるから。
そうそう。
行くはずの中学には、野球で知り合った先輩がいっぱいいたから、「岩瀬、中学来たらかわいがってやるからな」って脅されるようなこともあったりして。
当時は、中学校も荒れてたから、行ったらシメられるみたいなこともありそうだったし。
だから、引っ越すっていうことはわりとポジティブに捉えて、イチからやり直せる、みたいな思いだったですね。
自分の輪郭がわかんなくなった
ちょうど、中学校に入学するタイミングで引っ越しがあったんですか?そう。父親が三重県の短期大学で教えることになって、大阪のベッドタウンに家族で引っ越したんですけど、学校にいる人たちがみんな関西弁なわけですよ。

その中で自分だけ関西弁がしゃべれないのは、かなりのハンデですね。
当時は、学校も荒れてたから、おとなしくしてないとやられる、みたいな意識に急になって、うまく自分を出せなくなって。
人間関係もリセットされたことで、なんかこう、うまく自分の位置がつかめなくなってたんですよね。
それまではガキ大将っぽかったり、野球でもキャプテンやったり、活発に動き回る子どもだったのが、その転校を機に、関西弁もしゃべれないし、体も小さいみたいな中で、なるべく目立たないように過ごすようになって。
周りにどう思われてるんだろう、っていうことばかりが気になる中学生でした。
その頃は、何か夢中になって打ち込むようなものはあったんですか。
野球部に入ったんですけど、なんか思うように先輩と関係が作れなくて、ケンカして辞めることになって、途中からテニス部に移ったんですよね。
それはそれで楽しんでやっていました。一方中学生の頃は、両親がそんなに仲いい感じでもなく、そこに自分の反抗期みたいなのが重なって、親と全然口をきかないで過ごすみたいな、思春期を拗らせた時期が中2、中3、高1、高2って続きました。

だから、何かに打ち込んでるとか、夢中になってるとか、そういう感じは中学時代はあまりないかな。
なんとなくやり過ごして、サバイブしたみたいな感覚ですね。
楽しかった思い出も、そんなに思い浮かばない。
どうやったら早く家を出られるかなとか、そんなことばかり考えてる感じでした。
じゃあ、家でも学校でも、居心地があんまり良くなかった。
良くなかったですね。
自分のエネルギーも多分持て余してたんだろうなと思うんですけど、でも、小さい頃の多動な感じはだいぶ消えたみたいで。
だから、勉強でもやろうかみたいな感じで、やり過ごしてました。
中学校に入ってから、突然ハードモードですね。
中学時代、暗いっすよ。
本当になんか、自分の輪郭がわかんなくなったような感覚ですかね。
小学校の時は、自分は明るくてポジティブな人間だと思ってたのに、中学行って明るい人でもなくなって、人目が急に気になるようになったり。部活動はそれなりに頑張っていたし、読書も自分を支えてくれていましたが。
中学時代って、親との関係も結構難しかったりしたから、自分がどんな形をしてどう立ってるのか、わかんなくなったのが、中学から高校前半ぐらいですかね。

中学の時は、その次の進路ってどういう風に考えてたんですか。
何も考えてなかったです。
何やりたいとか、何になりたい、みたいなのも全然なくて。
高校選ぶ時も、地元の高校でいいよぐらいの思いしかなく。
中学の途中で、大阪から三重県の津に移ったんですけど、そこに自由な校風の公立校があって、「そこにしてみたらどう?」って言われて、自由そうでいいなあ、そうするか、ぐらいの感じでしたね。
だから、高校生活に夢を持ってたわけでもなく、暗い中学生です。ほんとに。
いやー、その振れ幅が、めちゃくちゃ面白いです。
小学校時代から一転して、思うようにいかない中学校時代だったんですね。
高校からは変化はあったんですか?
結構自由な高校で、制服もなくて、校風は自由でした。
でも、進学校に行っちゃったから、後ろから数えて何番みたいな感じになってしまって。
中学までは、そこそこ勉強できたことが、ある程度自分の支えになってたんですけど、今度は勉強でも自分の位置がない。

部活も迷ったけど、結局どれにも入れなくて。
だから僕、高校帰宅部だったんですよ。
おおお。
活動的に遊びまわってた時とは別人のようですね。
暗いっすよね。
家から学校まですごい遠くて、チャリで1時間ぐらいかけて通ってました。
家にお金ないの知ってたんで、せめてもと思って自転車で通学していて。
学校終わったらチャリでまっすぐ家に帰って。
あ、でもそういえば、高校の時、たまたま引っ越した家の隣に、同じ年齢の女の子が住んでいて。
通う高校は違ったんですけど、犬の散歩で仲良くなって、高1のときにその子と付き合うことになり。
なんと!
毎晩犬の前でおしゃべりしている時、なんていうのか、自分のことが必要とされている、っていう気持ちを久々に取り戻した感じがありました。
高2の途中ぐらいまでは、もうほとんどその記憶ばっかりみたいな感じです。

同い年の子がすぐ隣りの家に住んでたなんて、運命的ですね。
毎晩毎晩、家の前でおしゃべりしてるだけなんですけど、なんかそれが良かったですね。
まだ携帯なんてない時代じゃないですか。
朝、チャリのカゴに手紙が置いてあって、それ読んでから学校行くとか、帰ってきてまたおしゃべりするとか、ただそれだけだったんですけど。
なんか、次いつ会うとか約束しなくても会えるってのはいいですね。
そうそう。
それはすごい救われたというか、世界に自分の居場所がある、っていう感じを、そのころ唯一味わっていた時間なんじゃないかな。
こんなこと、初めて話しました。
いや、嬉しいです。
今までの流れを聞いてると、ようやく自分の居場所と思える場所ができたのは大きいですね。
大きかったですね。
今日何があったとか、たわいもないことを、夜の8時9時ぐらいまで、外でずーっと話してたんじゃないかな。
家の中には入らずに、ずっと外で。
そうそう、住んでる場所が漁師町で、魚の行商をやってるお父さんがすごい怖くて、うちの娘がそんなやつと付き合ってるのか、みたいな感じだったから、ずっと犬の前でおしゃべり。

ぶははははは!
犬の前でしゃべってる分にはいいんですね。
うちで飼ってる犬だったからね。
高校も、すごい自由な学校だったから、気楽だったし、楽しくないわけじゃなかったけど。
でも、すごくそこで熱中したことがあるかって言われると、とくにないし。
中高の時期って、ただ、なんとなく過ごしていたって感じでしたね。
本当は人生において一番楽しかったかもしれない時期は、グラフで書くと、ほんとこう、沈んでいる時期。
低空飛行の時期だったんですね。
その、家の前で、ただずっと話していた時間は、自分にとってすごく大事な時間でした。
けど、それ以外で、大学行ってやってみたいこととか、仕事にしてみたいこととかっていうのは、自分の中には全然なかった。
とにかくこの家から逃れたい、親元から離れたいっていうのがあったから、遠くの大学に行こうと思って、高3になって慌てて勉強し始めました。
もうそれしか家を出る方法はない、って思って。
やりたいことがあるからじゃなくて、家から出るために大学に行きたかった。

親からは、浪人させるお金はないと言われてたし、私立に行かせるお金もないから国公立しか無理だって言われていて。
だったらもう勉強するしかないからね。
朝学校に行って出欠とったら、抜け出して県立図書館に行ってずっと勉強する、っていう生活だったのが高校3年生。
普通に授業受けてたら、受験のための勉強はできないですか。
授業に出てたら、間に合わなかったですね。
それまで、そんなに勉強に身が入ってたわけでもなかったのが、突然、必死にやり始めた。
大学に行くんだったら、お金を出してもらえる。
親も大学には行かせたかったんでしょうね。
夜中の1時2時ぐらいまでオールナイトニッポン聴きながら、毎晩ひたすら勉強してました。
高2の途中で、隣りの子ともお別れしちゃったんで。
そうでしたか。
そうなると、家が隣りであることが逆に気まずいですね・・。
いや、ほんとに!
とにかく家を出たかった。
だから、そういう意味では、札幌から三重に来た時みたいに、もう1回自分をリセットする機会が欲しかったんじゃないかな。
当時そう思ってたわけじゃないけど、今話してて、そんな感じはあったなって思いました。
人の中で遊ぶ楽しさ
大学の選び方も、とにかく三重から遠い場所で、自分の持っている札で行けそうなところ、っていう選び方しかしてないから、学部もまったく気にしないで、行けそうなところを探す、みたいな感じでした。
持っている札っていうと、受験科目は何を選ぶんですか?
国語だけ得意だったんで、国語の配分が高いところや、小論文だけ、みたいなところで探して。
結果的には、東京学芸大学っていう、教員養成の大学行ったんです。
でもべつに、教員になりたかったわけではまったくなくて、そこの国語科は、国語で受験ができたから。
偶然の成り行きですけど、そこで教員の道につながったってのは、めちゃくちゃ面白いですね。
その頃、教育に関心があったっていうわけではないんですよね?
そう、教育のことには、ほとんど関心がなかった。
うちは、父親が哲学者で。
あ、そうなんですか。
またなんか、一番、お金を稼ぐこととは無縁そうな分野ですね。
ほんと、そうなんですよ。
家にいろんな本があって、社会派の本とか、ルポとか。
高校の時、暇だったから、父親の棚からそういう本をしっけいして読んだりして、新聞記者とか、弁護士とか、社会に役立つような仕事は面白そうだなって、漠然とした憧れはあったんですけど。

でも、行きたい学部を選べるような学校学力ではなかったので、そういうことに関心はありつつも、とにかく家から遠くの大学に、っていう探し方でした。
それでたどり着いたのが、たまたま、教員養成の大学だった。
いや、ほんとにたまたまですね。
大学に入って、一人暮らしの希望は叶ったんですか?
そう、でもお金がなかったんで、大学の寮に入ったんですけどね。
男子ばっかり120人ぐらい住んでる学芸大学の寮で、トイレとお風呂が共同で、部屋は5畳ぐらいの個室。
家賃が光熱費込みで2000円ちょっと。
2000円!?
そんな家賃で住めるんですか。
家庭の収入が少ないから、授業料も半額免除だった。
育英会の奨学金をもらいながら、足りない分はアルバイト、で大学生活がスタートしました。
だから、夢と希望を持って大学に行ったとかそういう感じではまったくないです。

でも、ようやく親元を離れられたという開放感はありましたね。
それと、いろんな関係がまたリセットされた。
完全にそうですね。
まったく知らない土地で、新しい人間関係が始まって。
大学では、教育学を勉強したんですか。
そう、教育学部だったんで。
でも、教員になりたかったわけじゃないし、勉強がやりたかったわけでもないから、大学の授業もギリギリの回数出るみたいな感じで、寮で寝てることが多くて。
大学は寮から1時間以上かかるところだったから、バイト以外は寮で寝てる。
男子寮で男ばっかり120人いる生活は、めちゃくちゃですけど、すごい面白かったです。
なんかこうやって同じ年代の人たちと一緒に暮らしたりするのをストレスなく楽しめるんだ、ってのが自分でも意外でした。
それまでは中高の間、一人でいる方が楽、みたいに思ってたから。

強制的に他人と一緒にいざるを得ない環境が、意外と楽しかったんですね。
そうそう。こういうコミュニティの中にいるのも悪くないなって思えたんですよね。
風呂も銭湯のように20人ぐらいで毎回入ってるし、強制的な飲み会みたいなのもあるような時代だから。
大学生の男ばっかり100人も集まったら、かなりカオスでしょう。
部屋にいても人が勝手に入ってくるし、冷蔵庫の物は勝手に食われるし。
でもこんなめちゃくちゃな中で、意外と楽しめていて、毎日飽きない。
それはでも、強制的に放り込まれないと、その環境にみずから行こうとは思わないですね。
そうなんですよね。
ご飯一緒に食べ行ったりとか、先輩に乗せられてドライブ連れてかれたりとか、そういう自分の意思とは無関係に外側から生まれてくることに巻き込まれた時間だったんだけど、それはでも悪くなかったというか。
人とこうやって過ごしたりしてるのって、意外と楽しいぞと。
一人になる時間を作らせてもらえない。

そうそう、ほんとにそんな感じ。
暇になると友達の部屋入ってっておしゃべりしたり、一緒にファミコンしたり、映画のビデオ借りてきて観たり。
なんかこうやって、みんなで集まって遊んで楽しいっていう感じは久々だなと思って。それは結構大きかった。
ドアを開けて外に出たら、そこに誰かしらがいるのって、団地の生活と似てますね。
あ、たしかに、たしかに。
小学校の時の感じにまた近くなったのかも。
異年齢のコミュニティの中にまた放り込まれたみたいな感じで、遊ぶ場所は変わったけど、やってることは大して変わんなくて。
でも、すごい楽しかったんですよね。
ご飯とかもね、そんなにお金なかったから、1年の時とかはウロウロしてると、先輩に会って「ご飯行くぞ」って奢ってもらったりとか。
なんかそういう、人の中で遊んだりしている感じが、心地いいって感じるんだなって。
今話してて思い出したけど、小学校の時の気持ちに、またもう1回戻った感じはあったのかもなって思いました。
根の部分ではそういう、大人数でわちゃわちゃしてるのが好きなんでしょうね。
でも、大学でじゃあ、やりたいことがあったかとかいうと、そんなこともなくて。
サークルも1個も入らなかったんですよ。

大学2年生の時かな、友達に声かけられて、他学科の子たちとの合コンに行ったんですけど。
そこで会った子に、「普段何してんの?」って聞かれて。
授業以外はバイトしてるか寮で寝てるかな、って話ししたら、「そんな暇だったら、ちょっと手伝ってほしいことあるんだけど」って誘われたのがキャンプのリーダーの仕事。
小さい子が参加するキャンプの引率みたいな仕事ですか?
小中学生が参加する野外キャンプで、大学生がそれぞれのグループについて、一緒に活動をする、っていう内容で。
やることもないし、バイト代も出るならいいかと、すごい軽い気持ちで行ったんです。
いろんな大学の大学生が集まってきていて、キャンプのリーダーを何度も経験したベテランから、なんとなく声かけられてきた僕みたいな子まで、いっぱいいて。
そのキャンプが、行ってみたらものすごい楽しかった。
はい、はい。
いきなりグループを持つんですよ。
小3から中3まで混ざった10人ぐらいのグループに1人、大学生の僕がついて、一緒にご飯作ったり、テント立てたりしながら、そんなにスキルがあったわけでもないけど、頼りない僕を横目に、自分たちのちからで、なんとかなっていく人たち。
ぶはははは!
なんとかなっていく人たち。

ああだこうだ言いながら、最終的にはどうにかこうにかテントが組み上がっていくとか。
ご飯もね、なんとか自分たちでカレーを作って食べるとか。
こうやって一緒に作るのめちゃくちゃ面白いなとか、3泊4日で関係が変わってくるのを間近に見て、いや、人ってすげえな、こんなに変化するんだっていうことに結構感動して、1回目のキャンプが終わる時には、最後は泣いてしまうくらいで。
そんなに!
それがきっかけで、のめり込んでったんです。
夏はその3泊4日を10本とかやってました。 ほとんど山にいる生活でね。
じゃあもう、夏休みはほとんどずっとキャンプですね。
ただいることを許された
小学校で野球をやめて以来初めて、やりたくてしょうがないことに出会った感じで。研修会もいっぱいあるので、スキルを磨くための研修会にもどんどん顔出したり、それをまたキャンプの現場で試してみたりして、失敗もいっぱいしたんですけど。

そうやって、初めての人が集まって何かを一緒につくる経験がすごく面白かったのと、自分自身も変化していっている実感があった。
中高時代は、他者と関係を作るのが難しくなったり、他者からどう見られているのかが気になったりしてたんですけど、キャンプに来る人たちって、そこを飛び越えてくるので。
こっちの都合とかお構いなしに。
4日間も一緒にいると、もう飾ってられなくなるので、ちゃんと生のぶつかり合いをするし、お互い本当の感情みたいなものとか、「取り繕いきれなくなる私」みたいなものが出てくるから、なんかそこで自分も必死になって一緒にやり取りする。
隠そうと思ったってズカズカ入ってくるし、こっちも真剣にやり取りせざるを得ないみたいな中に放り込まれて。
どう見えてるかなんか気にしなくても一緒にやり取りできる人たちがいる、っていう感じが、多分自分にとっては心地よかったんでしょうね。
関係性がフラットなんですね。
小3から中3までの年齢層の子が集まっていても、上下関係があるわけでもないし、お互いに評価をする関係でもないし。
そうそう。
僕も、最初の頃はスキルもないから、相対的には頼りないリーダーだったりするわけですよね。
でもそういうぼくでも、子どもの力で、なんだかんだ言いながら一緒につくることができる。

そこから3年間キャンプをやったんですけど、その3年でもう一回自分の身体が外に開いた感じがしました。
関心が外に向いて、他者とか、その先の社会みたいなことに、ぐーっと関心が向き始めたのはそれがきっかけですね。
なんかシンプルに、人って面白いなって思いました。
3泊4日だけでもこんなに変化していく。
キャンプで一緒に過ごす経験で、すごく変化するのはわかります。
4日間学校で過ごすのとは、なんでそんなに違うんだろう。
非日常であるってのもあるしね。
結局、自分たちが行動しないことには何も進まない。
学校はね、自分が動かなくても進んでいくので。
ああ、なるほど!
キャンプでは、自分でご飯も作んなきゃいけないし、寝床も用意しなきゃいけないし。
今から3時間自由、ってなったら、もう自分たちで遊びを作り出す以外に楽しむ方法はない。
そういう、コントローラーみたいなものが自分たちの手元に戻されるから。

集まったメンバーは、みんな初対面なわけですか。
そう、それも良かったんだと思います。
なんか最初はお互いに探り合う感じから、どんどん自分が出てきて。
初対面から、たった数日一緒に過ごしただけでも、めちゃくちゃ仲良くなりますよね。
仲良くなる。
で、自分もその中の一員でいるっていう感じが、やっぱりすごい楽しかった。
それをしかもゴリさんは、短期集中でガッとやって。
やりましたね。
キャンプの仕事は夏と冬の長期休みの時しかなくて、オフシーズンが長いから、その間に研修会もいっぱい行ったし。
東京の青山に「子どもの城」っていう場所が当時あったんですけど、そこでのボランティア研修に参加してボランティアになったり、とにかくもっと学びたいっていう気持ちがついに芽生えた感じでした。

研修で学ぶのは、チームビルディングみたいなことですか?
それはいろいろで。
たとえばキャンプスキルもそうだし、子どもたちとの関係をどうやって築いていくかとか、子どもの話をどう聞くかとか、プログラムをどうデザインするかとか。
そこに集まってる人たちも、興味を持って受けてる人が多かったから、そこでもお互いに刺激し合いながら。
それを2年生の時に始めて、卒業するまでずっとやってました。
キャンプリーダーの経験は、その後の進路を考えるときに、やっぱり影響ありましたか。
かなり影響ありましたね。
ほんとは、キャンプとか野外教育の業界で食べていきたいなと思ったんですよ。
でも、当時はまだ全然、それで食べていけるような世界じゃなかったので、ちょっと難しいなっていうのはあって。
野外教育って、今でこそ仕事にしている人は結構いますけど、当時は少なかったでしょうね。
業界としては狭かったですね。
そういう、経験とか教育にお金を出すみたいな文化がまだなかったから、みんなボランティアベースでやってるみたいな人が多かった領域なので。

ただもうね、寮も出なきゃいけないし、とにかく働かなきゃいけないので。
それで、学校の先生っていうのも、大きいくくりでは似た方向の仕事だな、ってちょっと思えるようになった。
もしかしたら学校っていう枠組みの中でも、キャンプで大事にしてるのと同じようなことをやれるんじゃないか、って思ったんですね。
(学校教育にぐっと関心を持つ機会もたくさんあったけど、ここでは別のお話)
子供と一緒に何かをつくっていくっていう意味では、あまり遠くない領域だから。その後、就職活動はしたんですか?
教員採用試験を受けただけでした。
落ちたら落ちた時と思って、あとは一切、企業とかも受けず。
教員になってまずは数年、学校の先生をやってみて、その間に野外教育に関わることを続けていけばいいか、って。
やっぱり、子どもと関わる仕事、はたらきはしたいなと。
キャンプを通じて、子どもの中に自由度があると、こんな動きをするんだとか、こんな風に変わっていくんだみたいな驚きはすごい感じたから。
それは多分、自分の子どもの頃の自由な感じと、多分感覚的には繋がってると思うんだけど、なんかそういうことに関わる仕事したいなと思って。
明確にやりたいことが見つかったんですね。
高校を出るタイミングで親元を離れたのは正解だったなと思います。
僕、その中高の時の感じもそうですけど、やっぱり他者の視線とか比較とかが、結構気になってたんだなって。
親の期待とかもそうですよね。
そこから一旦離れられたことと、2回連続のリセットの機会があったことが大きかった。比較から自由になったんですね。

で、大学に行って、1年生の時なんか本当何もしてないので。
でも、寮って、何もしないでそのままいられる場所だったなと思っていて。
家にいたら、親の目が気になってしょうがなかったと思う。
授業に行かずに寝てばっかりいたら、なにか小言は言われたでしょうね。
そうそう。
寮だと、授業は最低限だけ出て、あとは寝てようが何してようが誰も何も言わない。
ちょっとこう、しゃがんでる状態じゃないですけど、その感じは、今思えば自分にはすごい必要な時間で。
その間、本はすごい読んだりしたから、多分いろんなこと考えたり悩んだりしたと思うんだけど、その時間がたっぷり保障されたっていうのは、その後やりたいことに出会った時に動き出せる根っこになってたんじゃないかなって思います。
ああ、それはすごくわかります。
人生の中で、文句を言われずに1年間何もせずにいられる時期って、あまりないですもんね。

それが、どこかで孤立して一人でいるんじゃなくて、寮っていう結構大きいコミュニティの中でいられたっていうのもよかった。
寮に入ったのは金銭的な問題からだったけど、でも、自分にとって、ただいることが許されるコミュニティにいられたのは、本当に幸せなことでした。
そうですね。
競争があるわけでもなく、ただ、一緒に暮らしている人たち。
そうそう、そうなんですよ。
もちろん先輩も後輩もいるけど、大学ってそんな上下関係もなくて、「みんなで楽しく暮らしたいよね」ぐらいのことが合意されていて、でも、生活のことはみんなで当番でやる。
そういうコミュニティの中で、ただいることを許されたことで、回復した部分は結構大きいんじゃないかな。
4年間ずっと寮生活だったんですか?
最初は、一人暮らししたかったから、お金が貯まり次第出ようと思ったんですよ。
でも、心地よかったんでしょうね。結局出ずに、4年間過ごしました。
暗かった時代から、また、光が差したような。懐かしいなあ。
クラスでキャンプするぞ
さあ、ではいよいよ。大学を出た後は、小学校の先生になったんですね。

そう、埼玉県で教員になったんですけど。
そうですね・・いや、うまくいかなくて。
思い描いていたものとは違いましたか。
うん。
キャンプと同じように、子どもが自由な中で育っていくみたいなことを漠然とイメージしてたけど、学校はそういう原理で動いてないから。
勝手に校庭を開墾しちゃって怒られたり、クラスでキャンプするぞって言って怒られたり。
ああ、ゴリさんはやっぱり、キャンプをやりたかったんだ。
学校的じゃないものを、学校の中に持ち込んでなんとかしようともがいてたのが最初の頃で。
それこそ学生の時に一緒にキャンプやってた人たちに手伝ってもらって、バスをチャーターとしてキャンプに行くみたいな、めちゃくちゃなことをやってたんですよね。
ぶはははは!
いや、でも、クラスの子たちとキャンプやってみたいですよね。
自分自身がね、やっぱり小中高と、そんなに学校と親和性が高かったわけでもなくて、そこですごくいい経験したとか、楽しかったわけじゃないから。
自分がやって心地よかった記憶がある、キャンプみたいなものの体験を、そのまま持ち込もうとしてたんですね。当時、長野県の伊那小学校の実践にもあこがれていたので、見よう見まねでやってみたがうまくいかなかった。
教員になって5年目ぐらいまでは、うまくいかない時期が続きました。

自分の中の正しさとか、自分のやりたい気持ちが強くなって、周りの人とぶつかるみたいな感じになって。
校長に言われても「なんでそんなことしなきゃいけないんですか」ってに反発したり、学年を一緒に組んでる同僚の先生ともケンカしちゃったり。
周りはすごい困ってたみたいですよ。岩瀬は言うこと聞かない、って。
それはなんか、小学校の時に言われたことを思い出させますね。
ほんとに、ほんとに。
教員って、学校を異動していくんですけど、30半ばになって研究主任という大人の学びのリーダー的な仕事についたんですが、その噂を聞いたかつての同僚が、「あの人にそんなことできるの?大丈夫なの?」って言っていたっていう話を後から聞くぐらいですから。
自分の思いだけで突っ走ってたのが、20代前半から中盤にかけて。
なんかすごい振れ幅ですね。
それでじゃあ、自分の授業がすごい良かったのかっていうと、そんなこともなく。
なのに僕は学校的じゃないものを持ち込もうとしてたから、職場から完全に浮いてる感じでした。
そうか。
ここは学校なんだから勝手なことするな、ってことになりますね。
ほんと自分勝手に見えてたと思うし、実際、自分勝手だったなと思う。
自分が正しいと思ったら、それで突っ走って、わかってないのは周りだ、って思っちゃう感じだったんで。
だから当時の同僚は、ほんとに大変だったろうなと思います。

そういうのが最初の5年間で。
2校目の学校に、鳴り物入りで僕が異動してくるわけですよ。
とんでもないやつが来るらしいぞと。
そうそうそう、全然言うこと聞かないやつらしい、って噂が先回りしてて。
なんだけど、その2校目がかなり田舎の学校で、職員みんなが仲よくて、入った瞬間からすごい可愛がられたんです。
染谷さんていう先輩に、「お前はいろいろ面白いことやってきたらしいな。でもな、いい職員室を作れないやつに、ほんとにいい授業なんかできないんだ。」って、言われたんですね。
なるほど、なるほど。
僕はそれにも反発して。
「いや、逆ですよ。僕らは子ども相手に仕事してるんだから、いい授業するのが大前提で、職員室がどうとか関係ないです。」って。
ぶはははは!
とんがってますねえ。

そういう生意気を言っても、笑いながら受け容れてくれるような先輩で。
その学校は職員旅行でオーストラリアに行っちゃうぐらい、仲良かったんです。
学校をみんなで良くしてこうよ、みたいな感じでよくおしゃべりもするし、全校で保護者を巻き込んでお祭りをしたり、運動会も地域と共催したりと、開かれた学校でした。
そういういろんな人が集まってるコミュニティだから、すごい寛容度が高くて、僕みたいな飛び跳ねた存在をすごい面白がってくれたんですよね。
前の学校の雰囲気と全然違いますね。
前の学校でまったく相手にされなかった僕が、そこの学校に行ったら、「なんか岩さん面白いことやってるね、ちょっと教えてよ。」みたいに先輩たちが声かけてくれる。
エネルギーがあるやつがちゃんと活躍できるようにしよう、っていう感じで、じゃあこの企画は岩瀬に任せた、みたいに、全体の文脈の中で自分が飛び跳ねる感じを位置付けてくれて、うまく嵌めてくれたというか。
いつの間にかその職員室が自分の居場所になったような感じになって、地域にも開かれた学校だから保護者とも仲良くなっていって。

自分がどうしたいかよりも、このコミュニティにどうやったら貢献できるかな、っていう視点に変わっていったのが2校目で、それもまた大きい転機でしたね。
そこですごく大きく変化したと思います。
寮にいた時は、ただいられることがありがたいコミュニティだったけど、一緒に何かを作り上げながらコミュニティの中で自分が変わっていく感触を得られたのは、ほんとに大きかった。
それをしかも、公立の学校で経験したんですね。
そうですね、公立で思う存分にやらせてもらった経験はそれ以降、自分の仕事の原点になった。
学校は、コミュニティとして良くなっていくことを目指したら、一人で歩いていくのとは全然違う世界に行けるんだなって実感を得られて。
そこでなんか初めて、「これが自分の仕事だな」って思えて、軸足が定まったのが20代後半です。

ほんとに大事にされたなあ。
その学校には7年ぐらいいました。幸せな時代でしたね。
その次の学校からは、ゴリさんのアプローチの仕方も変わりましたか?
うん。
今まで教室の居心地をよくするためにやってきたことを、職員室でも実現したいなって思うようになりました。
そのままでいられる自分と、成長していく自分を常に感じられてる子がたくさんいるのが、居心地がいい学校だなって思うんですけど、それを支える大人たちも同じようにいられると、よりいいなと思って。
そこはやっぱり、リンクしてるんでしょうね。
もっと先の世界を作ろうとしてる
徐々に全体を俯瞰で見られるようになって、この教育っていう仕事はほんと面白いなと思いました。ずっと現場にいたいって思ってたんですけど、年齢上がってくると、担任じゃいられなくなってくるんです。

ずっと担任やってるわけにはいかないんですか。
クラスの現場からはだんだん離れて、管理職としての仕事の割合が大きくなってくる。
でもやっぱり僕は、子どもと一緒に場をつくるってのが一番好きなので、これからどうしようかとキャリアを思い悩んでいました。
そういう時に、東京学芸大学教職大学院で教員の養成にかかわるご縁に恵まれて。
同じ学芸大学に、今度は教える側として。
そうです。
今までは子どもや同僚と一緒にコミュニティーをつくる、っていうことを一生懸命やってきたけど、「先生を育てる」っていう側面からも、学校が変わっていくことに貢献できるんんじゃないかと思って。
現場からは離れることになるから迷いましたけど、迷ったら大抵進んどいた方がいいと思い、大学に移りました。
移ってすぐに、本城(軽井沢風越学園理事長)から、一緒に学校つくらないかって声かけてもらったので、結局、大学で先生を育てる仕事は3年で辞めたんですけど。
教室作り、職員室作り、先生作り、ときて、ついに学校作りの機会が巡ってきたんですね。
学校をつくるなんていう機会があるなら、それはやっぱりやってみたかった。
大学で教えるのも面白かったけど、やっぱり僕は子どもと一緒に場を作るのが一番好きだったし、これも縁だと思ったので。
それで、風越学園の設立準備に加わったっていう流れでした。

風越では、ゴリさんのこれまでの、全部の経験が活きてきますね。
キャンプでやってきたことも、小学校の先生も、大学の先生も。
そうですね。
風越って街みたいな学校だなって感じてます。
どんなコミュニティがいいコミュニティなんだろうってことを、子どもも大人もみんなで手を動かしながら考えてる空間だと思う。
理想の学校の形はどこにもないなと、僕は思っていて。
理想の形はないですか。
あると思ってたんだけど、そんなものはなかった。
それは、理想の社会がないのと同じで、ありもしない社会を目指すとだいたいろくなことが起こらないんです。
学校もやっぱりそうで、誰かが思い描く理想の形なんて一側面に過ぎないから。
僕自身もそういう理想を持ってたけど、違ったなと。
みんなが居心地がよくて、成長できる学校ってどんなだろう、って考えてる人が集まって、大人も子どもも手を動かし続けている。
その、試行錯誤しているプロセス自体がいい学校の状態だなと思ってます。

ずっと、完成することはないんですね。
ないと思います。
もし完成に向かってたら、なんかどっか間違えてるじゃないかな。
完成に向かうってことは、つくる余白が減ってくってことなので、もうそれはいい状態とは言えないだろうなって思います。
結局のところ、「よりよいってわかんないよね。でも大きい方向としては間違ってないかな。」みたいなことで。
そういう、なんか民主主義の実験をし続けてる場がそこにあって、実際に自分が手を動かすことで確かに変わるって実感持ってる人がたくさんいるのが、いい状態。
そういう意味で、今、風越はいい状態だよなって思います。
風越が始まった当時は、ゴリさんの中にも、「こうあるべき」みたいな理想像があったんですか?
ありましたね。
でも、そうするとうまくいかないですよね。
そこから引き算で見てしまうので、やれてないことばかりが目についちゃう。
今はすごい面白い状態だと思うし、変な話、僕が抜けても全然大丈夫っていうか。

それは大事なことですね。
ゴリさんの考え方が変わったきっかけって、何かありましたか?
自分が想定したりイメージしていたことよりも、もっと豊かなが起きてるなって思ったことが一番大きいかな。
とくに中学生たちと話してる時に、この人たちはもっと先の世界をつくろうとしてるな、って思います。
僕たちは頭で考えて「これがいい」と思ってるけど、体を動かしながら、体感している人たちはやっぱり強いなって。
それは、子どもたちのほうが得意でしょうね。
圧倒的に得意で、しかも実感をともなってる言葉だから強いんですよ。
手を動かしてみると、自分とその周りが変わっていくよ、っていう手応えを感じている。
僕もね、仕事を通じて自分や周りが変わっていくことを、いっぱい経験させてもらったから。
そういう余白が常に手元にある状態になってるといいよなって思います。
学校ってそういう場所だと思うし。
やっぱり変化していく人たちがいっぱいいるから、どんどん変わっていって面白い。

そこに一緒にいる大人も変化し続けているってことがすごく大事で。
自分が変わっているっていう実感が、子どもも変わっていくことを信じられる根っこになる。
自分自身が大きく変わった経験がないと、他の人も変われるって、本当には思えないですよね。
僕はほんとめちゃくちゃだったので、長い時間軸ではずいぶん変化してきたなって思うんですよ。
30過ぎてもなお自分は成長したなっていうのは、なんか実感をもって思うから。
この実感って多分、僕の一番の強みで。
ああ、そうか。
突っ走りながら試行錯誤してきたことが、強みになってるんですね。
だからこの先も僕はまだ変われるよなって思うし、子どもだって絶対変わっていく。僕はおじさんになってから変われたんだから。
子ども時代から大学途中ぐらいまでは結構どうしようもない、夢があるわけでもない、希望があるわけでもない、どちらかというと逃げる選択でたどり着いた場所だったけど。
でも、その沈んでいた時期を大事にできてよかったなと、今は思えます。
こうやって、ゴリさんの小学校時代からの話を通して聞くと、浮き沈みの波も含めて、全部に意味があったような気がしますね。
今に繋がる原体験を聞くことができて、すごく面白かったです。

いやあ、ほんとに面白かった。
僕自身も意識していなかったけど、実はいろんな出来事が繋がる物語も編めるんだなって思いました。
それは聞き手の僕にとって、一番嬉しい言葉です。
次はまた違う切り口で、今まで考えたことがなかったことについて話しましょう。
今日は本当に、ありがとうございました。
(2024年10月 軽井沢風越学園にて)