森村茉文


1982年3月6日生まれ。東京高輪生まれ、横浜青葉区育ち。
高輪→江田→田町→京急蒲田→田町→西日暮里→高田馬場→甲府→下北沢→渋谷→駒沢大学→武蔵小杉→恵比寿→池尻大橋→
現在は
夫1人、娘1人、わんこ一匹(他界)、にゃんこ一匹、ニワトリ(にわこ、とりこ)2羽+αと現在祐天寺に住む。

雨にも負けず、風にも負けず、丈夫な体を持ち、欲はなく、決して奢らず、いつも静かに笑ってる。~みんなにデクノボウと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、お天道様の下でいつも静かに笑ってる。そういう人に私はなりたい。

グラフェンユニファイ株式会社 代表取締役
(2024年9月 祐天寺「五本木邸」にて)

人生のターニングポイント

(清水宣晶:) マフは、人生の中で、ここが自分にとってのターニングポイントだったな、って思う時期はいつだった?

(森村茉文:) うーん・・・
小学生の時と、高校生の時と、今、じゃないかなと思う。


最初は、小学生の時。

小学生の時っていうか、幼少期全般なんだけど。
おばあちゃんがすごく強くて、すごい信心深い人で。
あっきー、辯天宗って知ってる?

あの、智辯学園の関連の。

そうそう!
おばあちゃんは、渋谷の、ご本尊がいらっしゃる場所の、名誉会員みたいな感じになっていて。
ちっちゃい時から、信者さんの集まりみたいなのに参加して、多分いっぱいお布施もしてたから、私はそのすごい方のお孫さん、みたいな扱いだったのね。
だから、般若心経も読めるし、そういうのは一通り分かります、っていう感じだった。

教義としては、仏教と似ているの?


いちおう仏教なので、基本的には輪廻転生の考え方。
だから、人はなんでここに生まれて、ご先祖さんとは何か、死んだ時にどうなるのか、みたいなこととかをずっと考えてて、それが私の原型だと思う。
なんだっけ、畜生の世界に行くみたいなのがあるじゃん。

六道輪廻の話しかな。

そう、そういうのを幼少期から教え込まれていたっていうのが、私の思想のベースに揺るぎなくあった。

その辯天宗は、べつに過激な思想とかじゃなくて、仏教の基本的な教義から、かけ離れてはいないわけだよね?

うん、離れてないけど、なんていうの。
うち、すっごいお金持ちだった時代から、バブルが崩壊して、全然お金なくなっちゃって、借金取りに追われるっていうところまでの落差がすごいあったの。

どんどんお金がなくなっていくのに、お布施をしたり、高い掃除機を買ったりして浪費してたから、周りの人とか親族も、おばあちゃんに対して懐疑的になるじゃない。
なんでこんなにやってんのに私たちは幸せになれないのよ、みたいな。
そういう思惑が周りでうごめいている中に私はいて。

うんうん。

かつ、おばあちゃんから、とにかく人よりも秀でてなきゃいけないっていう刷り込みがあったし、100点とって帰らないと、マジで家に入れてもらえないみたいな、そういうお家だったのね。

で、外面はいいけど、外に遊びに行くのも、家に友達連れてくるのも絶対ダメだったりしたから、なんか、すごい不思議な家で育った。


おばあちゃんの影響が、すごく大きかったんだな。

おばあちゃんから言われたことで、私は、対人関係においていつも、人との比較で秀でてるものを自分の中に探さないと、怖くなってしまって。

虚像なんだけど、人よりも秀でていられる自分を装う、みたいなのが癖になったのが、おばあちゃんに関する系譜。

で、思想の系譜では、輪廻転生とか、道(タオ)とか。

タオ!
それも関係あるんだ。

1週間に2回ぐらい、ご本尊がある渋谷に行ってたんだけど、そこに、プーさんみたいな絵が描いてあるタオの本が置いてあって。

そこに行って、講話みたいなのを聞くの?


講話もあるけど、講話よりも本が面白いと思ったから、本がたくさん置いてあるところにいて、ずっと読んでた。
そうすると、周りの人がそれを褒めてくれるわけ。

それが小学校の時に形作られた原型で、私が中学ぐらいの時には、家にお金がなくて、部活も絶対ダメ、みたいな感じだった。
っていうか、家で仕事してたの。
ご飯とか家事とか全般的にやってたから。

そうか。

偏差値至上主義のお家だったから、とにかく偏差値がいいところしか認めません、って言われてて、桜蔭とかの受験勉強してたんだけど、いろいろ忖度して、塾も途中で行かなくなったし、私立受験もやめた。

で、結局、区内で一番の進学校に入って、私が家族全員のご飯作るのが日常だったっていう感じから、ようやく解き放たれた。
学校の帰りにマック行くとか。


そういう普通の生活がようやく実現したんだ。

高校で部活に入れたから。
中学校は帰宅部で、部活に入れなくて、そういう閉鎖的な中にいた。

ひたすら勉強?

そういうわけでもなかったような気がするんだけどね。
中学生の時、遊園地に行ったりするんだけど、親にお金をもらっちゃいけないと思ってたから、もう、相当意を決して行って。

よみうりランドに行ったときに、みんなフリーパスとか買うけど、わたし、そんなお金持ってないから、「別に私、ジェットコースターとか乗りたくないし」みたいな感じで、回数券だけ買って。

その感じ、わかるなあ・・。

そういうのが、高校で解き放たれて。
で、その時、自分の未来は結構華々しいし、自分は何にでもなれるっていうふうに思ったんだよね。
だけど、お金がなかったのは、ずっと続いてたから。

お小遣いももらってなかったんだけど、おじいちゃんが、たまに私が寝坊すると、車で高校の前まで送ってくれて。
いっぱい小銭が入ってる巾着袋を出して、「マフミ、この中に手入れて、どれか1枚もっていきな」って。

ぶははははは!
お小遣いあげるのにクジ引きの要素入れるの、めっちゃくちゃ面白いな。


でもそんなの、これが500円玉だ、ってわかるじゃん。
だから手さぐりで探すんだけど。

なんか、そういうのが、なんて言うんだろう、「くっそっ!」って思ったんだよね。

なんで、私のうちはこんななんだ、って。

そうそう。
だけど、高校からバイトも始められたりで、お金に関しては、ちょっと楽になったのと、変わった家だったから、周りの人に「変わってるね」って言われると、なんかいろいろと得じゃん。

それって、得なんだ!?

得だって思う。
なんか、自分の思い通りに行かないこととかを全部後ろに棚上げし始めたのが、その頃だなって思ってて。
いろんなことを、うまくやれるようになったんだと思う。
その時に対処しなくても、若いし、いろんな期待を先送りにできるっていう、そういう甘い蜜を覚えたのが、高校生の時だった。

そうか。
なんとなくやり過ごす術を身につけたのかもな。

人間とはなにか、を解明したい


高2から専攻が分かれて、私は医学部志望だったんだけど、数III、物理、化学っていう、ド理系の科目で、全然テストが解けなくて。

だけど、私は肥大化した私だったから、医学部行くのも東大の理IIIじゃなきゃみたいに、おばあちゃんから言われたのもあって。

結構その頃から、理想と実態とが違ってたんだと思う。
自分で稼いだお金で、Z会の、そういう受験クラスにも行ったんだけど、やっぱりわからない。

自分で稼いで、塾行ってたんだね。

そう、朝5時から生協でバイトして、そういうのが、苦学生っぽくて、楽しかったんだけど。

でもさ、実態として、みんなの方が全然できるって思った時に、私、別にそのことに向き合わなくても生きていけるし、みたいな、なんとなく先送るっていうことを覚えたのが、高校生。

だけど、なんか一貫してあったのは、やっぱり、自分の中に満たされないものがあって、お医者さんになりたいって思ったのも、最終的には、幸福を解明したい、みたいな思いからだった。

そういう動機だったのか。


自分の中に常に満たされない感情を、ずっとずっとずっとずっとずーっと持ち続けていて、それがなんなのか、っていうことを解明したかった。

宗教とかを身近で見てくるとさ、苦しんでる人がほとんどなんだよね。
だから、なんかどっかで冷めてる自分もいて。

宗教で人は救われるのか、って?

信じるものっていうのがあることによって、救われる部分はあるけれども、それは本質的に救われたことにはならないじゃないかっていう。
であれば、その人にとっての救いとか幸せとかって何なのだろうか、というのが果てしないテーマとして私にあって。

で、結局行き着いたのは、脳の研究をしようということと、あと、シャーマン。

脳とシャーマン。

そう、宇宙の真理みたいなところと脳を解明すると、その真実が私は知れるんじゃないかと思って。
そうすると、世の中を、より多くの人たちを幸せにする何かを私は手に入れられるんじゃないかっていう思考にたどり着いたのが高校生の時。


スピリチュアルな面と、科学的な面と、両方からアプローチしようとしたんだね。

そうそう。
そこを探ろう、というのが私の人生のテーマになったのね。

「脳とは」ってこと?

その時思ってたのは、「幸福とは」かな。
でも今思うと、「人間とは」なのかもしれないなって思う。

面白いなあ!

だから、医者になるっていうのは、私は人を助けたいわけではなく、目の前にいる人に向き合いたいわけでもなく、医学的なことを知らないと、私の望みは達せられないだろう、っていうことで行き着いたのね。

そういう結論に行き着いた頃、おじいちゃんが、高3の夏に死んだの。

うち、すごい厳しい家だったから、おじいちゃんは、たまにお小遣いをくれたり、私をフォローしてくれたりとかする、唯一の人だったんだけど。


おじいちゃんは、おばあちゃんよりは緩かった。

だいぶ緩い。
すごい強いおばあちゃんと、すごい弱いおじいちゃんで、足して2で割るとちょうどいい、みたいな感じだった。

で、おじいちゃんが死んだ時に、検査入院って言って入院したのに、その検査で死んじゃったのね。
でもね、その当時のことは、もう、何が本当かわかんない。
うちの家、何が本当で、何が嘘か、だんだんわかんなくなってくる家なのね。

ぶははははは!
ミステリー小説みたいな家だな。


で、おばあちゃんが医療訴訟起こしてやるって言い出して、みんながおばあちゃんを止めたり、その頃ウチには、お母さんの恋愛事情とかもあったりして、いろいろなんか複雑すぎて。

そんなことが同時に。
めっちゃくちゃ複雑だな。

複雑なんだけど、私は、医療訴訟がどうのとかよりも、おじいちゃんが死んじゃったっていう事実があるじゃん。
初めてそんなに身近な人が死んだのね。

で、その死んだ時の状態って、体じゅうにたくさん管つけられたまま、機械の中にいるような感じで。
なんか、人のあり方ってなんなんだっけ、これが一番いい死に方なんだっけ、って思わされる、それはなんか、絵にしたらいいと思うぐらい、自分の中では象徴的なビジュアルになっていて。

そのタイミングで読んだのが、魯迅の『故郷』っていう本だったのね。
魯迅って、元々お医者さんだったんだけど、文芸の道に進むことになった人で。

お医者さんから作家に。


その時に、私に医学部っていうのは、もしかしたら大変かもっていう思いがあって。

本当に人を幸せにするのは、医学とか科学とか、人間がコントロールして解明できることよりも、どう生きるか、どう最期の時を迎えられるか、っていうことなんではなかろうかと。

であれば、私は逆に、「心技体」があったときに、心の方に何かアプローチをかけられる方が、自分のやりたいこと、ありたいことには近いんじゃないかというのが、そのおじいちゃんの死に触れて考えたことで。
それで、理系から文系のほうに興味が移っていった。

医学面からは、人を幸せにできないっていう感じだったのかな。

そう、科学、医学ではない側面からのアプローチの方が重要だなって思ったんだよね。
それが、志望校をどうするかって考える、高校3年の夏。

医学部に行くかどうしようかっていう時だね。

もう1回青春が来た

・・っていうのがひとつ、大きなターミングポイントとしてあったんだけど、
本当のターニングポイントは、そのあと結局一浪して、上智の心理学科に受かったの。

そうなんだ!


だけど、本当にタイミングよく、お母さんが彼氏とやってた土木屋さんが連鎖倒産しちゃって。
借金取りが、玄関をドンドンドンって叩きにくるような感じになっちゃって。

そういうことが、受験シーズンのタイミングで訪れたりとかしながら、お母さんが大変になっていく、みんな逃げていく、みたいなので、結局、大学に行くのやめるよって言って、お母さんの会社に入った。
でも私の中では、その後ずっと、あの時そうしなきゃよかった、っていうのが残って。

大学行くのをやめたのは、お金的なことで?

お金的なことと、なんか、自己犠牲と。
ここにいていいのかな、っていう不安がある私が、一番パワーを出すのは、貢献感が得られるとわかったときだから。

そうか。
犠牲にした代償が大きいほど、貢献をしたっていう気持ちになれるんだ。

そう、自分の満足感っていうか、高揚感も含めて、満たされるわけなんだよね。

なるほどなあ。


だから、その時は多分満たされて、それがかっこいいと思っていたし、それでいい、っていう風に思ってたけど、その時の後悔は、相当尾を引いた。

私の人生で、もし道が二つに分かれていたんだとしたら、そのタイミングで分かれたんだなって感じる出来事だった。
そして自分も、その当時、ほんと大変だった。

大変だった。

そうだ、思い出した思い出した。
だって私、浪人してる時に、家のご飯を稼がなきゃいけないから、
コンビニでバイトして、コンビニの残飯もらってきてたの。

すごいな。

家族の分も、おばあちゃんの分も。
なかなか、ちょっとね、不思議な家だったの。

私のなかで肥大化していくものと現実との差分がどんどん広がっていくんだけど、でもまだ若いし、私はもっと、全然できるからって思ってた。
それがどんどん開いていくのが、高校以降かな。
開いて開いて、開いて開いて、どんどん開いて。

うわ、これは大変だってなったのが、グラフェン(会社)を作ったのが8年前だから、それぐらいまで。

その間、ずっと現実との差が開きっぱなしだった?


ずっと、開いてくんだけど、私も成長するから、なんとか追いついていって。

仕事のことで言うと、不動産の営業でそれなりの営業成績が上げられるようになって、そこから、マネージャーになったり、役員になったりして、自分で事業を作ったり、大手企業から出資をしてもらえて。

私なりには、その、先送りしてしまった自分の期待値を回収しに行きながら、ジャンプをし続けてきたのが、最後、破裂したのが、去年かな。

それって、でも、言葉を変えれば、高い目標を掲げて、それに追いつくように自分を成長させてきたってことだよね。
ほどほどじゃなくて、どんどん肥大化させたからこそ、たどり着けた境地があるんでしょう。
悪いことじゃない気がするけど。


そうだね、悪いことじゃないと思う。
でもなんで私ばっかりこんな環境で、っていういうようなことはずっと思ってたし、本当に最近まで思ってたんだけど、何だったかな、なんかきっかけがあって。

見え方が変わったきっかけ?

なんか、なんだろう、すべてが今の私を作ってるんだっていう風に、どれも悪いことではなかったなって、感謝だなっていうふうに、嘘じゃなくてね、思えるようになったっていうのはあるかな。

それが最近。

最近。
結構最近に凝縮されてるの。
最近の私の変化たるや、もう1回青春が来てるぐらいな感じで。
だから、なんていうの、今は毎日が新鮮。


毎日が新鮮!
それはなんでだろう。
昔に経験できなかったことを、今あらためてできてるってこと?

なんかね、多分こういうことなんじゃないかなと思ってるのは、いつも家にいても、私はこの家にいる意味とか、探しちゃうわけ。
私が今ここにいる価値とか、この家に対してできることとかっていうのを、常に探しちゃうの。

でも、なんかそれって、すごいおかしいなことで、それはもう、その家に生まれたんだから、それでしかないでしょっていう事実なのに。
とにかく意味が欲しくなっちゃうの。

自分が選んだものじゃなくて、生まれた家とか、そういうことでも?

全部。
私が今ここにいていいのか。
なんで私はここにいるんだ。
常にそういうことを考え続けてた。
それは、地盤みたいなものがなかったからなんだけど。

でも今、家族がいて、娘がいることで、それが自分のベースなんだなっていうふうに思えるようになった。

それによって、もう1回青春が来たのか。


わかんない。
私、多分、居場所がなかったんだと思うんだよね。
それはなんかいろんな事情があるし、誰を責めるとかももう全然ないんだけど、居場所をずっと探してたっていうことが多くて。

なんで今、青春がきてるのかっていうと、まぎれもなく私がここにいる、っていうことを、実感できる環境になったからなんだと思う。

今がまさに、マフのターニングポイントなんだな。

私の最終的な目標っていうか、夢は、山にこもることなの。

おお、山に。
こもって、何をしたい?

自分なりに脳の勉強をして、探究をしてみたい。
今ってすごく、脳科学も進んでるじゃない。
全然まだ解明できてないと思うけど、それを自分なりの着眼点で研究したい。


それはやっぱり、「人間とは」ってところの追求なのかな。

なんか一番、それがしっくりくるような気がする。
私自身がずっと考え続けてきたことだから、っていう文脈はあるんだけど、今は単純に、「人間とは」の探求心の方が強いかな。
(2024年9月 祐天寺「五本木邸」にて)

清水宣晶からの紹介】
とにかく器の大きな人だというのが、僕がマフについて感じている一番大きなイメージだ。
多少の無理難題が降りかかってきても、マフならなんとかするだろうという気がするし、とても混沌とした条件の中から一番よい形を自然と選びだすだろうという安心感がある。

もともとの情報処理能力が高いということも、たぶんある。
でも、マフの容量の大きさは、そこだけに由来しているのではなく、人生の濃淡を数多く味わってきた、これまでの経験知から主に来ているのだと思う。だからこそ、その内面の水源は広く、深い。

こういう悩みについて、マフはいったいどう考えるだろう?
この人とマフを会わせるとどんな化学反応が生まれるのだろう?

そういうことをつい楽しみに想像してしまうぐらいに、マフはどんなパスでも受け取ってくれそうな気がするし、あらゆる素材と掛け合わせることができそうな気がする。
マフのように、じっくりと話せる、語り甲斐がある話し相手がいるということが、僕はとても嬉しい。

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