梶原隆徳


1967年生まれ。
千葉県出身。

2018年4月より信州みよたクラインガルテン 大星の杜・面替に入居
2021年3月より焙煎小屋のセルフビルドを開始(5月に完成)
焙煎した珈琲豆を直接手渡しする「K's Roastery」を2021年6月より開始
2021年10月より住居用ログハウスのセルフビルドを開始(翌年10月入居開始)

★IRONMAN RACE 完走 6回
(北海道・スペイン・台湾・マレーシア)
(2024年5月 長野県御代田町「梶原邸」にて)

東京から逃げてきたんです

(梶原隆徳:) じゃあ、、
こんな場所でいいんですか?


(清水宣晶:) いやいや、この場所が最高なんですよ。

こんなちっちゃな小屋ですけどね。
入れたかった薪ストーブも置いたし、ここでこうして料理をしたいとかも、一応実現したんで、だからまぁ、そういう意味では好きなことやってる。

そうですよ。
自分の空間を自分の好きなように作れるってのは、最高の道楽ですよ。


それは言える。
男は結構、こういうのやりたいじゃないですか。
だから、これはこれでいいもんだなと。

まあ、いいですよ、清水さん。
別に隠すことなんてないから、いろいろ聞いていただいて。

え?そうですか!?
じゃあもう、今日はいろいろ聞かせてもらいます。

梶原さんが御代田町に来たのは、どういう流れだったんですか?
まだ、御代田が注目される前で、移住者もそんなに多くなかった時期ですよね。

清水さんは、「濱野皮革工藝」って知ってますか。


あれですよね、御代田町のふるさと納税で、いつも人気ランキングの上位に入っている。

そうそう。
工場が、塩野にあるんですよ。
僕は昔、そこを買収した会社の役員でした。

えええ!

だから、御代田ってのは、知らない場所じゃなかったんです。

梶原さん、その時はどういう仕事をしてたんですか?

東京で、会社を買収して再生する投資会社にいました。
ただ、経営方針の違いとかで、いろいろ方向性が違ったりしてね。
最後はもう、ケンカ別れですよ。

そうなんですか。

その代わり、これは、言ったらあれだけど、まとまったお金は入ったんですよ。

じゃあ、抜けるときに、自分の持ち株を引き取ってもらって。

まぁそうです。
それで、東京から逃げてきた(苦笑)。
言葉はあれだけど、でも「逃げてきた」っていうのが正しい。
その頃たまたま、御代田のクラインガルテンが入居者を募集してたんです。


ちょうどいいタイミングで。

1年に1回、空きがあれば募集するんですよ。
当時、クラインガルテンっていうものが、全国的に人気になり始めていて。

そうか、この町に住みたい、というより、クラインガルテンに住みたい、っていう人がいるんですね。

家の庭で畑ができたり、自然に近い生活ができたり。
なんと言っても、安いんですよ。
家賃3万円とか。

すごい!

最初は、箱根とかで応募したんです。
そしたら抽選でダメだった。

そんなに人気なんですか。

で、そんな中、御代田町のクラインガルテンは当時、抽選無しで入れた。
それで来たんですよ。
逃げる場所が運よくできた。

すごい縁ですね。
しかも、御代田町のことなら少し知ってるよ、と。

そうなんです。
最初は、東京との二拠点生活ですね。
出張も多かったので、天王洲の、いわゆるタワマンです。
羽田にも近いし、新幹線利用で品川駅も近いしね。



マジですか!
タワマンだったんだ。

仕事は、海外の会社を買収して日本で売るとか、日本の会社を買収して海外に売るとか、いわゆる投資会社です。
付加価値をつけて、生まれ変わらせて、売却する。
まぁ、そういうのの繰り返し。

なんというか、めちゃくちゃ派手な世界ですね。

でも、やっぱり失敗もあるんですよ。
いや、失敗の方が多かったかな。
買収した会社の社員が辞めちゃったり、色々大変なこともありました。

そういう業界の経験は長かったんですか?

いや、初めて。
ただ、もともと僕は山一証券の出身で。
そういう業界や、M&Aというマーケットがあることくらいは知ってました。

そうだったんだ!
山一證券が経営破綻した時にもいたんですか?

もうその時には辞めてました。
会社に入って4年で辞めて、26歳で起業したのが、ITバブルのちょっと前で、三木谷さんとかが出てきた時代です。
ITの会社を自分でやって、それで、グーンと伸びて。
でも、清水さんみたいにプログラミングをやるんじゃなくて、人を使う方。

ああ、なるほど。



講演とかもやってました。
口八丁手八丁みたいなことやって。

ぶはははは!
梶原さんの独壇場ですね。

でも、上場会社の役員になってからは大変で。
利益が上がらないと株主にも突き上げられるわけですよ。
だから、買った会社で結果が出なかったら、従業員のことも考えずに売り飛ばすわけです。
それが嫌になっちゃって、それでもう逃げてきたんです。
なんつうかね、物差しがお金でしかないような、そういう生活に飽き飽きしちゃって。

いやー、資本主義のど真ん中にいたんですね。

この間、佐宗さん(BIOTOPEの代表)の話を聞いて、ほんと共感した。
僕も、自分のやってることがお金で評価される感覚だったし、自分自身の尺度も、知らず知らずの内にお金になってた。
で、いつの間にかすべてが、儲かるか儲からないか、の判断だけになってました。



御代田に来て、はじめは、環境の違いに衝撃を受けましたよ。
時間がゆっくり進んでいる感じがして。
それが精神的に、すごく助かりました。
1年間はほんと、何もしませんでした。

あの世界...何というか、お金に翻弄される世界にいるとおかしくなる。
だからね、ずっとやり続けてる人、継続出来ている人は、ある意味すごいですよ。

お金に身を捧げて、心を捨てなきゃできない仕事ですね。

おっしゃる通り。
いろんな人の話を聞いてきたりしてる清水さんなら、この手の話は、よくお分かりでしょう。
でも僕は、こうやって180度振り子を振ったおかげで、ようやくわかった。

僕は魂を売っちゃったんだね

で、僕はトライアスロンを40歳の時から始めたんですけど、これでほんと救われたんです。


体を動かすっていうのが良かったんでしょうか。

それはあります。
あと、海外でレースしたりすると、なんかこう、日常を忘れられるところがあって。
あと、結構、自分を追い込むから。
ドMだから、僕は結局。

ぶははははは!
それでハマっちゃったんですね。


それはもう、助かりましたよ。
仕事からは、完全に離れられるし。
だから、失うものはあったけど、得るものもあったかなっていう感じ。
でも、ここに来てよかったと思います。

いや、すごい縁だなあ。
そうとうシビアな世界にいたんですね。

山一証券にいた時にも、まぁ、4年しか在籍しなかったけど、もうこの業界は腐ってるとつくづく思ってて。

金融バブルの時期ですか?

そう、NTT上場とか、そういう時。
すごかったですよ。

それをでも、証券会社の内側から見てたってのは貴重ですね。

入って最初の年のボーナスが100万超えでした。
金融業界すげえ、と思った。
でもやってることはかなりきつくて、400人入った新入社員の同期が、1年後には、半分になってましたもん。

そんなにきついんですか。



きつかった。
お客さんを取んなきゃいけないし。
数字を常に求めらるし。
まぁでも、幸運なことに僕には、いいお客さんがついたんですよ。
でも数字が出来たら出来たで、逆にいろんな矛盾も分かってきて、それが苦しい。
先輩なんか、黙って勝手に買っちゃうんです、お客さんのお金で。

それはなんか、使い込みみたいなことですか。

使い込みではないんだけど、年配のお客さんは、自分のお金が何に使われてるかなんて見てないから、もうやりたい放題なんです。
手数料が入るし数字にもなるから、勝手に買って、勝手に売る。
そういうのが日常茶飯事で、もう、嫌になっちゃって。
ほんと、これはおかしい、この業界腐ってると思って。


自分が相手するお客さんは、社長さんとか、みんなお金持ちじゃないですか。
そうするとやっぱり、「こんな仕事は辞めた方がいいよ、早く自分の会社を起こしなさい。」って言われるんですよ。
それで、起業しました。

それは、何の業種で?

英会話スクールとか、花屋とか、もう儲かると思ったら手を出して、でも失敗の連続でした(苦笑)。

その頃は、まだインターネットなんかなくて、「パソコン通信」っていう時代ですよ。

ニフティサーブとか。


そうそう、ニフティサーブ!
そんな頃なんですけど、色々やった後に、カラオケ屋さんが当たった。
それでお金ができたんです。

ちょうど、Windows95が出始めの頃で、これからはもう絶対コンピューターだ、と思って。
夜の生活はダメだ、って、それで転身してITを始めたんです。

ITで起業をするには、すごくいいタイミングだったでしょう。

今考えるとね。
それで会社作って、ホームページの制作、メルマガの配信、ECの代行、ネットワーク構築とか。
まぁ、ITの何でも屋さんです。

みんなが名刺にメールアドレスを書き始めた頃だし、ほとんどの会社はホームページなんか持ってなくて、その先駆けで重宝されました。

ネットバブルが来る前のタイミングに、もう先に海に出てて、波に乗れたんですね。

だけど、僕は、ファンディングでお金を集めなかったんです。
そうすると、やっぱり身動きができなくなっちゃうから。

よくわかります。


小さいレストランとかのホームページを作りながら、そこの集客とかのお手伝いとかをしてました。

その後、金融とITの経験がある人材がぜひ欲しい、って誘われて、自分の会社まるごと、投資会社に吸収されました。
80人の小さな会社が、一部上場のグループ会社になって、社員は全部で800人。

うわー、いきなり、一気に規模が大きくなって。

僕がやってた小さい会社だと、福利厚生も何もないけど、吸収されてグループ会社になれば、一部上場企業の社員だし、福利厚生も立派じゃないですか。

でも、今考えれば魂を売っちゃったんだね。
結局、ガッチガチに株主に縛られて、やりたいことは何もできない。

そうか、上場企業ですしね。


僕がやってた会社は、ほんとにちっちゃな会社だったけど、やりたい事はとにかくすぐやったし、それが出来た。
決算が良ければ、みんなにボーナス出して、沖縄に旅行に行ったり。
いま思えば、それでよかったんですよ。
続けていけるかは別として、そうやって頑張っていけばね。

だけど、上場企業に移ったら、まぁ何て言うんだろう...株主のために働いてる感じ。

そうですよね。
まず株主の利益を考えなきゃいけないから。

グループ入りが40歳の時。
それから、グループを大きくするために、日本で売りに出てる会社とか、いい技術を持ってる会社にお金入れて、再生する。
海外からは、日本のこういう会社が欲しいっていうオファーを聞いて、探す。

いや、すごいな。
ものすごくドラマチックですね。

トライアスロンが人生に見えてくる

いいんですか?こんな話で。

めちゃくちゃ面白い話ですよ。
激動の時代に、その真っただ中にいたってのは。


でも、サイバーエージェントの藤田くんとか、同時代にITの力で世の中を変えようとしていた人たちとは、一線外れちゃった部分もあるんで、彼らが羨ましくもあったのは事実かな。

ITと投資の世界に入ったら入ったで、本当に葛藤の毎日でしたね。
資本中心の世の中に、結局は振り回されてた。

いや、でも、その世界にいたからこそ、今の御代田の暮らしの良さがわかるところもあるでしょう。

ですね。
やっぱり、資本主義の世界から身を引いたことで、逆に見えてきたものがあります。
だから、ボランティアとかも積極的にね、自分に出来ることがあれば行こうと思ってはいるんです。

めちゃくちゃ面白いなあ。
その話を聞いた後に、梶原さんが100円で出していたモーニングコーヒーのことを考えると、やっぱり繋がるところがあるんだなと思います。
僧侶の松浪龍源さんの話を聞いたのが、きっかけだったんですよね?

そうなんです。
龍源さんの話を聞いて、まぁ衝撃でした。
自分が持っているものを周りに還元するっていうことを、俺はなんにもやってない!って思って、それで始めたんです。

「豊かさとは余剰を分け与えることである」って話ですね。


僕の経歴とモーニングコーヒー会が繋がってる、って思ってくれたのはありがたいです。
でもね、今も、このままでいいんだろうか?っていう葛藤があるんですよ。

それは、どういう葛藤なんですか?

やっぱり、ほら、こんな好き好き勝手やってて。

なにか、罪滅ぼし的な感情があるんでしょうか。
東京で働いてた時代の。

それもあるのかもしれない。
東京にいた時は、移動は運転手付きのハイヤーで、海外出張はビジネスクラス。

でも、一度枠組みにハマると、そうそう抜け出せない。
だからね、これは、ある意味「麻薬」ですよ。

よくでも、渦中にいて、それ気がつきましたね。
その中にいると、なかなかわかんないじゃないですか。

確かにそう。
本当によく気づいた。そして、行動できた。
なんであいつ辞めるんだ?って言う人もいたし、それで正解だ!って言う人もいました。

「よく辞めれたね」って。



でもね、不思議なんですけど、辞めた後、1〜2年は、急激な孤独と、なんて言うんだろう、お金が入ってこないことの、恐ろしさが来ました。

変な話、自分が世の中に必要とされてないような。

いや、絶対、その気持ちは感じますよね。

今からでも会社に来てくださいとかっていうメールも、たまに来るんですよ。梶原さんがいなきゃダメですとか、必要です!とか。
そういうこと言われると、こう、心が揺れるんですよ。

はい、はい。

だからね、ある意味、遠くにいて良かった。
東京から離れたところに居てね。

たしかに、物理的に離れるってのは大きいんでしょうね。

今思えば、コロナで強制的に隔離されたのも、ある意味、助かった。
トライアスロンの仲間とか、仕事以外で知り合った仲間とか、彼らとゆっくりいろんな話が出来て、救われました。
一緒に走ったり、山に行ったりもしました。


そうでしたか。

なんとなく僕の中では、全部、繋がってるんです。

いや、すごい腑に落ちましたよ。
昔からの流れを聞くと、出会うべくしてトライアスロンに出会っているんだなと。

清水さんも、ほら、やったでしょ。
夜中に何十キロも歩き続けるっていう。

やりました。
佐久の強歩大会(韮崎から佐久まで78kmを歩く大会)。

長い距離のトライアスロンとかやってると、わかるんですけど、1つのレースが、こう、なんか人生に見えてくるんですよね。


ああ・・なるほど。

長い距離のエンデュランスなレースっていうのは、波の大きな人生経験を積んだ人ほど、ハマるらしいんですよ。

で、しかも、どっちかっていうと、自分のことを深く内省してる人がハマっていくらしい。
だから、似たような人が集まるんですよ。
強歩大会、どうでした?良かったでしょ?

良かったです。
ひたすら歩くってのが良かったんですよ。
マラソンとかだと、体力そのものの勝負になりますけど、ひたすら歩くのって、それ以上に精神的なものを求められる感じで。


おっしゃる通り。
エンデュランスなものは、精神を養うと思うんです。
清水さん、ぜひ続けてください。
僕もずっと、続けていこうと思ってます。
(2024年5月 長野県御代田町「梶原邸」にて)

【暮らし百景への一言(梶原隆徳)】
いやぁついついしゃべり過ぎました。
聞き上手な清水さんに釣られました。
今回のインタビューをきっかけに、暮らし百景に掲載されている人達の人生を読ませて頂きましたが、実に興味深いです!

清水宣晶からの紹介】
梶原さんは、移住者が急増している御代田町で、「K's Roastery」という屋号でコーヒーの焙煎をやっている。
品質と技術には定評があり、梶原さんが焙煎したコーヒー豆が欲しいという人があちこちから集まってくる。

コーヒーの焙煎屋さんなのかといえば、それだけではない。
ロードバイクに乗って颯爽と走り、住む家を自分で作り、全力で人生を楽しんでいる。

梶原さんのインスタグラムのアカウント名は「t.k.restart」。
御代田町に来て新しい人生を再スタートさせた。

農園の収穫や、DIYの手伝いなど、力を貸してほしい人がいればすぐに駆けつける。
御代田町という町のことや、住人のことをとてもよく知っていて、スープの冷めない距離に気心が知れた仲間がたくさんいる。

昔ながらの下町人情を思わせるけれども、下町人情は今や東京よりも、むしろ地方に残されている。
梶原さんにふさわしい暮らしは、東京よりも御代田町にあったのだと思う。


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